第100話 最後の選択
ここから見る星はまたたいていない。
アイルは不思議な感覚を覚えていた。
身体がふわふわと浮かんでいるのだ。
「よいしょっと。」
ガチャっと何かと繋がる音が耳に届く。
「まったくもう。勝手に命綱を離して―。戻れなくなったらどうするのですか?」
「おいルナ。どうだ?」
「ヒューストンへ。おバカの回収終了です。」
「そうか。いやぁ、ヒヤッとしたぜまったく。」
アイルと繋がった彼の声には冗談が混ざっていた。
「ルナ。アイル。二人は今、ギネス世界記録だ。軌道から最も離れた場所へ、二人揃って到達した。宇宙船「スペーシアX」から1000mも離れた場所だ。おめでとう。」
「事故でなければ、喜べたのですがね。」
「ルナ。それからアイル。そこから見える景色はどうだ?」
彼は無線交信している相手に何と答えるか考えているようだ。
「そうですね―。言葉では表せないです。」
遠くに、野球ボール程の大きさの青い星が見えた。
「ヒューストンすまないが、少しの間無線をカットさせてもらうよ。」
「なんだいルナ。愛の語らいか?」
「説教です。」
彼は冗談めかして言った後、無線を切った。
彼とアイルの間でしか、無線は通じていない。
「まったく。どさくさ紛れに、勝手に行かないでくださいよ。私だって見たいし、こうしたいのですよ。アイルさん。貴女と二人で、宇宙遊泳。」
静寂の宇宙空間。数多のロマンを紡いで、遠くに白い宇宙船が見えた。
アイルは無線を完全に切る。
少々慌てふためく彼を横目に、アイルは彼の正面に回るとヘルメットを彼のヘルメットにそっと当てる。
「ルナ。私は貴方を愛しております。」
「こんなところで―。でも、それは私も同じです。」
アイルは彼とまた無線を繋ぐ。
「愛している。その言葉は、無線では無く、直接言いたかったのです。星々に囲まれた、この空間で―。」
彼も無線を切ると、クルリと身体を回転させて彼のヘルメットをアイルのヘルメットに重ねる。
「ありがとうございます。私も、貴女を愛しております。アイルさん。」
ヘルメットの向こうの彼は微笑みながら言う。
その後ろには、淡く輝く月が見えていた。
ーーー
朝の光が、静かにカーテンの隙間から差し込む。
アイルは目覚めると、隣にまだ穏やかに眠る彼の存在を感じた。
腕がそっと触れる距離で伝わる体温。
昨夜の余韻が、言葉にならなくても胸に柔らかく残っている。
彼もゆっくり目を開けると、こちらの存在を確かめるように手を動かし、やがてアイルの手に触れる。
先ほどまで見ていた宇宙の夢のように、アイルは彼の手を握った。
「おはよう。」
「おはようございます。」
その言葉だけで、胸が満たされた。
本来なら庄屋で家族そろって朝食のはずだった。だが、彼と二人で栃木の町を歩きたいという思いが勝り、朝の巴波川の畔を歩き、ミツワ通り沿いの喫茶店でモーニングにする。
彼と紅茶を嗜み、アイルはチーズトースト。彼は普通のトースト。
「美味しいですね。この紅茶。」
彼は微笑むと、アイルも微笑みを返す。
昨日、彼は「アイルさんの笑った顔が好きです」と言った。
その言葉が、まだ胸に残っている。
モーニングの後、庄屋に戻り、午前中の仕事を少しだけ手伝う。
庄屋は午後から明日までは臨時休業。
その間に、アイルと彼は挙式を挙げる。
「列車の時間は―。」
「15時20分発の「スペーシアX」です。コックピットスイートをお取りしました。あぁ、お父様とお母様、霧積博士母娘が2番のコンパートメント。麗さんと鉾根さんは3番です。」
アイルが浮かれながら、彼に列車の時間を教えると、彼は列車の時間と名前を聞いて、「あぁ」と、どこか遠くを見るような目をした。
「東武日光駅では馬車が待っております。お母様と霧積博士が御者を務めます。」
アイルは微笑む。
昼食は昨夜の残り物を温め直し、いよいよ挙式に向けて準備する。
彼の黒紋付羽織袴とアイルの白無垢を用意。
日光東照宮に着いたら、それに着替えて17時00分から挙式が行われ、19時に挙式が終わると、19時30分から、日光金谷ホテルで夕食会。今夜はそのまま、日光金谷ホテルに宿泊だ。
ちょうど出発の準備を終えた時、鉾根が手配したタクシーがやって来た。
日産セドリックのタクシーが4台。隊列を組んで栃木駅まで一行を運ぶ。
栃木駅のホームに行くと、特急「スペーシアX」がやって来た。
「この時間に「スペーシアX」は無いはずだ。臨時列車かな?或いは、この世界の時刻表だからかな?」
彼は首を傾げる。
「ふふっ。」と、アイルは微笑みながら彼の手を握る。
「私は既に、幸せです。」
「私のような存在が隣に居ても?」
「貴方だから幸せなのですよ。」
彼はそっぽを向いた。
列車に乗ると「では、後は日光までお二人でごゆっくり」と言われながら、最後尾のコックピットスイートに入る。
栃木から東武日光までは40分程度。あっという間だった。
しかし、彼にはその40分が、アイルの隣へ立つまでの長い旅を振り返る旅に感じたらしい。
東武日光駅に着いた。
「では、行きましょう」と彼の方から言ったので、アイルは少し驚きながらも、
「ええ。行きましょう。」
と、微笑む。
東武日光駅のホームに夕陽が差し込んでいた。
空気は澄み、山の匂いが混じっている。
4番線では、C11‐325号機が逆引きで牽引する観光準急「大樹・日光」が発車の時を待っていた。これは下今市駅に帰る列車で、この後、C11‐325は保守点検のため、南栗橋車両管区へ行くことになっている。
「ボォーッ!」と、C11‐325号機が長い汽笛を鳴らして、観光準急「大樹・日光」が発車する。
アイルと彼が並んで列車に手を振っていると、車内からアテンダント仲間や旅客が手を振り返しているのが見えた。
改札口へ向かう途中、アイルは振り返った。
そこにあったはずの「スペーシアX」の姿は消えていた。
音もなく。
痕跡も無く。
ただ、世界が少しだけ軽くなったような気がした。
それは、何かを失った寂しさと、何かを選び取った安堵が、同時に胸に広がる感覚だった。
アイルは何も言わなかった。
ーーー
エレナはルナを連れて、駅前の電停から日光軌道線の路面電車に乗り込んだ。
馬と馬車が大の苦手なエレナは、路面電車へ逃げたのだが、ルナもまた、馬が嫌いらしく、一緒に逃げ込んできた。
「おいおい。新郎が逃げてどうするんだよ。」
「アイルさんには断りました。エレナさんこそ―。」
「里緒菜さんの許可は得ているよ。」
二人で笑い合いつつ、ルナは路面電車から見る日光東照宮の門前町の景色に目を奪われる。やがて、神橋の鉄橋に差し掛かった。
「わぁっ。ここを本当に走っている!」と歓声を上げる。ルナの世界には草の中に橋台が埋もれて残っているだけで、神橋を走る路面電車の鉄橋など無く、日光軌道線など、資料でしか見たこと無いのだ。
これから挙式であるのに、その緊張感など忘れてはしゃいでいるルナの姿を見ながら、エレナは携えている銀色のジュラルミンのケースの中身をどうするかと考えていた。この中身を見たら、ルナは何を思うだろうか。
電停から人力車に乗せて貰い、東照宮の表門に着いて、社務所で受付をし、アイル達を待っている時も、エレナは悩んでいた。
ルナがアイルに頬を抓られるのを横目に、「この脱走兵!」と、霧積博士に羽交い締めにされながら、里緒菜にくすぐり攻撃を喰らい、東照宮に入る。
ルナとアイルがそれぞれ、黒紋付羽織袴と白無垢に着替え、本殿で挙式が短く、静かに執り行われた。
鈴の音。
白い紙垂。
固めの杯。
その様子を、エレナは一番後ろの場所から静かに見守った。
ーーー
挙式が終わり、日光金谷ホテルでの夕食会に向かう時、
「少し、ルナを借りるよ。」
と、エレナは言い、ルナと陽明門を通り、陽明門の下の石段を降り、鳴き竜の薬師堂への分岐のところで、エレナは覚悟を決めた。
エレナはジュラルミンのケースを開く。
「行けなかったらしい―。」
ルナはジュラルミンのケースに入っている、月探査ローバー「アイル」と「ルナ・パスファインダー」の機体番号のプレートを見る。
「そう、ですか。」
ルナは溜め息交じりに言った。
「回収時刻は?」
「昨日の15時過ぎ―。5分にはなっていない。」
「では、打ち上げから5分も経たず、ですか。で、あるなら、宇宙放射線の心配は無いですね。」
意外な程にルナは落ち着いていた。
「回収状況は?」
「最初に、この探査ローバー?が落ちて来た。中に、君とアイルの写真。それから、回収時取扱依頼書が入っているのを確認した後、機体番号のプレートが落ちて来た。」
ルナは部品を見つめたまま、しばらく言葉を失った。
それは、宇宙に行けなかった証であり、この世界に辿り着いた証でもあった。
「で、あるなら、探査ローバー「アイル」は、「ルナ・パスファインダー」をこの世界へ導いたのです。確かに、探査ミッションは失敗です。しかし―。」
ルナが空を見上げると、そこに月が見えた。
「心理的には、成功です。探査ローバー「アイル」は、「ルナ・パスファインダー」を、この世界へ導いたのです。」
ルナは微笑んだ。
「エレナさん。アイルさんと二人にしてください。」
「ああ。分かった。」
エレナは頷き、更に石段を銅鳥居の方へ降りて行った。
既に拝観時間は終わり、境内にはルナとアイルの二人の他は、関係者しかいない。そして、今、陽明門の前にはルナとアイルの二人だけだ。
夜空に月が出ている。
半月から2日経った、膨らみかけの月だ。
その明かりに導かれるのように、アイルが陽明門の石段を降りて来た。
月の光は陽明門の屋根を淡く照らすだけで、北の空には雲が陰っており、星は見えなかった。代わりに、煌びやかな装飾が、夜の中でなお鮮やかに浮かび上がり、まるで別世界への門のように見えていた。
ルナはジュラルミンのケースを持ち、アイルと向き合う。
「私は、ずっと分からぬままでした。そして、今もまだ分かりません。」
ルナが口を開いた。
月に向かって語りかけるような、小さな声だった。
「私は、どの世界に居るべきか―。どこへ行けばいいのか―。自分は、何者なのか―。」
風が木の葉を鳴らす。
「でも―。」
ルナはゆっくりと顔を上げた。
「一つ、分かる事があります。」
アイルの顔は、あの鋭い獲物を狩るような物でも、微笑みを浮かべた物でもない。
まるで、新月のように、そこにあるのに輪郭だけが見えない。
「私が歩きたいのは、この世界です。この世界で、アイルさんと―。いや。アイルさんとその仲間の方々と一緒に、生きていきたいです。そして、アイルさんはその象徴です。」
その時、アイルの顔は明るく微笑んでいた。まるで、満月のように。しかし、その頬にはまた、一筋の涙があった。
「私は、ずっとルナを見ておりました。そして、今後も、ルナを見ております。約束していただけますか?私を見ていると。」
アイルは、ルナの手を取る。
その手は温かく、確かにそこにあった。
「はい。」
ルナは頷くと、一歩、アイルの方へ歩み寄る。
一瞬吹いた夜風の中、二人の影が重なった。
ーーー
石段の下、里緒菜は思わずカメラを構え、シャッターを切った。
ファインダーの中に、陽明門と二つの影が映る。
「里緒菜さん―。」
エレナの声は低く、しかし柔らかだった。
「これは―。」
「分かっております。でも―。」
里緒菜はファインダーから目を離して、空を見上げる。
その時、北の空の雲が消え、陽明門の屋根の上の夜空に一つの星が姿を現した。
北の星。
動かぬ星。
旅人に道を示してきた星。
「なるほどね。」
エレナはそれを見て、ゆっくりと頷く。
月明かり、そして、星明りに包み込まれながら、今、石段をルナとアイルがゆっくりと降りて来た。
石段を降り切ったところで、ルナとアイルも振り返る。
「あっ―。」
アイルもそれを見た。
「本当に、陽明門の屋根の上に見えるんだ。北極星―。」
ルナも溜め息のような、微かな声を漏らす。
その頬には、アイルと同じく、一筋の涙が、天の川のように流れていた。




