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第99話 チェックメイト・99%の転移

「まだ分からない事が―。」


 ルナの手元。白の駒の残りはポーン1つ、ルーク1つ、キングのみ。

 盤面は、誰が見てもエレナの圧倒的有利だった。


「2年の空白は位相のずれで説明できます。しかし、その後、2025年7月20日の太陽フレアと、23日のオーロラ爆発。その時に転移しているならば、私はこの世界を認識していなければなりません。しかし、その後、東武鉄道や東武日光観光開発への就職活動で夏休み期間中である7月23日から9月11日までの間、幾度か日光鬼怒川地区へ行っておりますが、その際は―。」

「君の世界のSL大樹の観光アテンダントはどこに所属していた?」

「えっと―。」


 ルナは記憶を辿ろうとしたが、曖昧だった。

 そこで、スマホを取り出し、過去に撮影した動画や、動画投稿サイトの動画を調べてみる。

 SL大樹の車内アナウンス。観光アテンダントの声。


「違う―。」


 ルナは、はっきりと呟いた。

 元居た世界には、東武日光観光開発という組織は存在しなかった。


「君は7月20日か23日の時点で、既にこちらの世界へ転移していたのだよ。では、なぜ、9月11日まで君が認識できなかったのか―。」


 エレナはもう1台のノートパソコンを、今、エレナが使用しているパソコンに並べて、ケーブルを用意する。


「あっ。畜生。里緒菜さんめ。まぁた下品な写真ぶち込みやがって。何かに付けてすぐ爆薬仕掛けるお姉さんだよ。」


 中身を確認しながら、エレナは咳払いする。


「おっと、だが、こりゃちょうどいい物だ。」


 エレナは2台のパソコンを指差した。


「このノートパソコン「R」を君の世界。こちらのパソコン「A」をこの世界と仮定しよう。そして、このケーブルが世界の結節点だ。」


 ケーブルが接続されると、Aの画面に、Rの中身が表示された。


「では、この「R」の中にある、この里緒菜さんの写真ファイルを、「A」にデータ移行してみよう。」


 エレナが操作する。だが、データ移行はすぐには終わらない。

 進捗バーは、ゆっくりとしか進まなかった。


「これと同じ。パソコンの演算処理能力にもよるが、データ移行は一瞬では終わらないように、君の存在の完全転移も、時間がかかっている。」


 エレナは画面を指す。

 ルナは黙って頷いた。


「そして、9月11日―。ちょうど、7月20日の太陽フレアと7月23日のオーロラ爆発の日と、太陽暦と太陰暦の差とほぼ同じ日数が経った日、君はこちらの世界を認識できるようになったのだ。」


 盤上のキングが僅かに動く。


「そして、君がその日乗っていた「スペーシアX5号」の脱線事故の時。」


 エレナは紅茶を一口飲む。


「君は元居た世界では抜け殻になっていた。事故にあったのは抜け殻で、君の存在はこちらへ移行していた。」


「あの時の異常な睡魔で眠ったのは、転移のため―。だから―。」

「君は、君の世界で起きた事故を、認識できなかったのだよ。」


 エレナは紅茶をもう一杯淹れる。

 ルナは盤上を見ながら、次の一手を思案していた。


「特別教習が終わった翌日、1月4日から今日まで、元居た世界に戻っていたのです。」


 ルナはまだチェス盤を見つめたまま、ゆっくりと呟く。


「この家へ遊びに来た時、君が伝えた太陽フレアだな。君は一時的に元の世界へ戻されていた。そして、霧積博士が、今日も太陽フレアが起きたと伝えてくれた。この太陽フレアで、またこの世界へ戻って来たのだ。」


 エレナは、先ほど庭で回収した物を見せようと思ったがやめた。

 これ以上は、ルナ自身の選択に委ねるべきだった。無理に知見を押し付けたりするのは、ルナの決断を奪うことになると思ったからだ。


「続けて言うが、君がこの家に遊びに来ていた時の太陽フレアと、さっき霧積博士が伝えてくれた太陽フレア、これも同じだよ。そして、君が元の世界に戻されたのが1月4日だったが、今日はそれからおよそ50日。太陽暦と太陰暦の差と一致する。」


(だろうな。)と、ルナは思った。


「そして、今、君の転移はここで止まっている。」


 エレナが指差す進捗バーは、99%で停止していた。


「君の転移は99%完了している。そして、残りの1%は―。」


 エレナはゆっくりとチェス盤に視線を落とした。


「君の選択だよ。」


 ルナはチェス盤を見つめる。

 白のポーンをあと一つ進めれば、クイーンに昇格できる上、黒のキングを射程に捉えられる。しかし、進めた先は、黒のクイーンの射程圏内。 


 迷いが胸を締めつける。


「何度も言う。決めるのは君だ。ルナ、君自身。」


 静寂が流れる。


「考えているのか。私は何も出来ない。代わりに、一つ聞きたいことがある。」


 エレナは研究室の扉に視線を飛ばす。

 そこにいる存在に「こちらへ来て」とアイコンタクトで呼びかける。


「アイルのことをどう思っている?」


 ルナはそれに、一瞬顔を上げた。

 問いかけは、優しくも鋭い。


「正直に言っていいんだよ。」

「-。出会ったとき、奇妙な事を言う奴だと思いました。しかし、一緒に過ごしていくうち、空っぽの私の心に手招きするような―。温かい物を感じました。」


 ルナは一呼吸置いて、紅茶を一口飲む。


「元の世界へ戻された時、アイルさんが恋しくなりました。そして、気付いたのです。いつの間にか、アイルさんのことを、好きになっていたと。」 


 ルナは胸の奥を静かに見つめる。


「アイルさんと過ごした―。いや、アイルさんだけでは無く、その仲間の皆さんと一緒に、日光鬼怒川地区を歩いて行きたい。そう思いました。この世界をずっと、どこまでも―。」


 ルナは守りのため、白のキングの近くから離せなかった白のルークを、黒のキングの前に動かす。

「いいぞ」とエレナは黒のクイーンを、黒のキングと白のルークの合間に入れる。


「アイルは、君にとって何?」

「アイルさんは―。」


 ルナはルークを前進させ、黒のクイーンを撃ち落とす。

 エレナは黒のキングを動かす。


「この世界の、象徴です!」


 ルナの最後のポーンが前進。クイーンに昇格し、再び、黒のキングを捉えた。


「歩く覚悟はあるか?アイルと、この世界を―。」

「-。」


 あと一手で、ルナは、エレナのキングを追い詰められる。

 ルナは最後の一手。ルークの前進を一瞬ためらう。

 だが、決意は固い。


「まだ、分かりません。しかし、生きることは知ること。アイルさんと一緒に歩いて行きたい気持ちに、嘘はありません!」

 ルナのルークが前進し、エレナのキングを追い詰めた。


「チェックメイト」ルナは深く息を吐く。


「合格だよ。ルナ。」


 エレナは微笑んだ。


 ルナの手元に、静かに水滴が落ちる。

 振り返ると、アイルがルナの後に立ち、優しく微笑んでいた。

 その頬には、涙が流れていた。

 隣には里緒菜もいる。


「試合時間、1時間45分。まもなく夕食会ですわ。」


 里緒菜も微笑んでいた。


「申し訳ございません。時間をかけすぎてしまいました。」


 エレナは詫びる。


「15分前に終わったから咎めません。しかし、私の写真を用いたのはちょっと。」


 ニヤリと笑う里緒菜。エレナは先程までの鋭い顔から一転、怯えたような顔になる。


 アイルはまだ、涙を流していた。


「アイルさん。泣かないでください。」


 ルナはアイルの頬に伝う涙を指で受け止める。


「私は、アイルさんの笑ったお顔が一番好きですから。」

「ありがとう。」


 アイルのその笑みは、泣き笑いだった。


 夕食会の後、エレナとルナは銭湯へと出かけるが、男同士でこっそり抜け出ようとして、ルナがドジこいて里緒菜とアイルに見つかってしまい、4人で行くハメになる。


「まったく。今夜はルナと私の2人でお風呂に入りたかったのに。」


 アイルが頬を膨らます。


 ミツワ通り沿いの金魚の湯と言う銭湯に入る。当然、男湯と女湯に別れているので、今夜はゆっくり入浴できそうだ。

 湯気が立ち込める銭湯の脱衣所。ルナはタオルを握りしめながら、ふと口を開いた。


「明日、「スペーシアX」で日光へ行くと先ほど、夕食会の席で聞きましたが―。私が完全転移したら、あの列車はどうなるのでしょうか?」


 エレナは肩まで湯に浸かり「ふーむ」と一瞬考える。


「実を言うと、アイルと君が初めて触れ合った日である、7月20日の後、「スペーシアX」がこの世界に現れたんだ。」

「えっ?」

「君の世界では「スペーシアX」は2023年にデビューした事になっているな?」

「はい。」

「2025年9月11日まで、切符を入手できず、乗れなかった。もしかして―。」


 エレナが思考を巡らせる。

 ルナは隣の泡の浴槽に入るが、思いのほか深かった。おまけに熱い。


「7月20日から23日の転移の後、ルナは「スペーシアX」に乗れた。それが9月11日。それ以降は?」

「妙な具合に、切符が取れるようになりました。」


 溺れかけたルナは、堪らずエレナの入っている浴槽に入り直す。

 こちらはちょうどよい深さで、思い切り肩まで浸かって、足を延ばす。


「もしや「スペーシアX」という列車は、君の世界とこの世界を結ぶ存在でもあったのかもしれないな。」

「では、転移した事がきっかけで私は、「スペーシアX」に乗れるようになったと?だとしたら、私が完全転移したら?」

「君が完全転移した時、この世界と君の世界を結ぶ「スペーシアX」はその役目を終える。つまり―。この世界から消えるだろう。」


 ルナは天井を見上げる。

 湯気が壁一枚隔てた女湯の方からも立ち上って来る。

 湯気の中から、アイルと里緒菜の笑い声がかすかに聞こえる。


「明日、見られるのが、最後になるかもしれないですね。」


 立ち上る湯気の中に、ルナの寂しいような声も上って行った。

 そして、ルナの心の中で、静かに決意を固めた。



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