第一話・ルノワール
リリエナは今日はいつになく機嫌が良かった。
ここ数日は雨が続いていたが今日は久しぶりに夏特有のサンサンと照りつける太陽と真っ青な青空が顔を出している。少し埃っぽい様な乾いた空気を思いっきり吸い込めば雨のせいで鬱々としていた気持ちも吹き飛ぶ様だった。
額に手をかざし空を見上げれば高い空にいくつかの黒い影が見える。眩しい太陽に目を細めれば甲高い鳴き声が聞こえて、初めてそれが鳥なのだと分かった。あまりに高く飛んでいるから点にしか見えない。
「あー本当に良い天気。こんな日に閉じ籠ってちゃもったいないわよね」
リリエナはもう一度んーと声をもらし、胸を反らして息を吸い込んだ。
手にしていた洗濯カゴを抱え直して目の前の白いシーツを満足気に眺める。
リリエナが今居る場所は自宅の庭で、たった今洗濯物を干し終えたばかりだ。ここ数日の雨で溜っていた洗濯物を朝も早くから一気に洗いそれを全て干してしまえば僅かな疲労を上回る大きな達成感があった。リリエナは家事が嫌いじゃない。
そんなときグゥとその場にそぐわない音が聞こえて無意識の内にリリエナは自身の腹をさすり、もう一度空を見上げた。鳥は既に居らず、変わりに瞼を焼いてしまいそうな程に強烈な熱を孕んだ太陽は既に真上に近い所まできていた。
「もうこんな時間?お昼の準備しなきゃ」
夢中になって洗濯を干していた為時間の事などすっかり忘れていた。一つの事に集中すると周りが見えなくなるのはリリエナの悪い癖だ。
慌ててカゴを持ち直し自宅の扉に向かって小走りで走る。頭の中でお昼の献立を考えつつふと片隅で思い出したのは金髪碧眼の傍若無人な彼の事だった。
「あいつまだ寝てるのかしら?信じらんない…」
そうと気付くと家の中から物音ひとつしない。きっと今もまだ暖かなベッドの中で無駄な惰眠をむさぼっているに違いない。昼まで寝て過ごすなど家事をしなければいけないリリエナには考えられない事だった。彼が現れてからと言うもの一人暮らしのリリエナの生活一変してしまった。
今までは食事だって簡単に済ませていたけれど偏食気味な彼の為に献立に頭を悩ませる事になったし、男物の洗濯物を洗ったり干したりするのは思春期真っ最中のリリエナにはとても抵抗があった。
だが最大の悩みの原因は彼のその性格だろうとリリエナはつきたくもない溜め息を青空の下で吐き出した。
「確かポポロの実があったからそれをスープにして、後は…」
ブツブツと呟き、扉を開きながらどうやって野菜嫌いの彼に食べさせるか考える。ポポロの実とは親指大程の芋に近い味がした野菜の一種だ。煮て良し焼いて良し揚げて良しの主婦の強い味方でリリエナも良くお世話になっている。
「ポポロとか出したか『こんな家畜の餌なんか食えるかよ!』なんて言われるのかな」
腰に手を当て声真似しつみるが自分でもどうかと思う程似てなくて、玄関につっ立って何してんだかと恥ずかしくなってきた。
だが実際昨日の食卓に出した豆の煮物を見て彼が「鳥の餌なんて食えるかよ!」と言ったのは記憶に新しい。
あのときは本当に殴ってやろうかとリリエナは悩んだ。
彼がこちらに来てしまった原因がリリエナにあるとしても働きもせず、昼まで惰眠をむさぼる彼にアレも嫌コレも嫌等と言う権利はない!とリリエナは声を大にして言いたい。
けれど自分の事を「王子だ俺を敬え」等と言う自称王子様な奴に何を言っても無駄なのだとこの3日の間で嫌と言う程思い知らされた。
実際何を言っても「何で俺がお前の言う事聞かなきゃなんねぇの」の一点張り。
しかも彼が言う「王子様」と言うのもその真実を確かめる物がないから怪しいものだ。言葉使いや性格を置いておけば、確かに動きや仕草は平民の彼女から見てもどことなく上品で精練された動きにも見えると、手を洗い台所に戻ったリリエナは棚をあさりながら思った。
そこで目的の物を手にして、瞬きひとつ。
いやいや、駄目だ。あんなのが王子様な訳がないと、一瞬でも認めそうになった考えを頭を激しく振って追い出す。
この後お昼ご飯を食べたらリリエナは近く町へ出掛けるつもりだった。いきなり増えた住人の生活用品の買い出しに行かなくてはならないのだ。
「なんで私があいつの為に…」
と一人暮らしをするようになってから増えた一人事を呟くリリエナの手には先程手にしたフライパンとおまたが握られている。
「さてと、王子様を起こしに行かなくちゃ」
皮肉を込めてわざと王子様と呼ぶ。リリエナはニヤリと意地の悪い笑みをまだ幼さの残る顔に浮かべた。
リリエナが一人で暮らす木造の一軒家は広くはない。先程の台所にリビング、庭に面した日当たりの良い部屋に最後の一室が今リリエナが立つ扉の先だ。そこはリリエナの最もプライベートな場所と言っても良い。何しろ生活する家の中でも一番無防備になる場所、寝室なのだから。
そっと扉に耳を押し当て物音がしないか確認してから静かに扉を開けた。
「………」
やはりまだ起きていないのか、この家にある窓側に設置された唯一のベッドの上は薄手の毛布でもっこりと膨れている。意識して見ればそれは緩やかに上下に揺れているのが分かった。
リリエナは朝も早くから洗濯をしていたのに今だに眠りこける彼とではどっちが家主なのかわかったもんじゃない。しかも唯一のリリエナのベッドを占領してだ。
リリエナは勿論譲るつもりなどなかったのだが自称王子様な彼が「床でなんて寝れる訳ねぇだろ!お前が床で寝ろ!」
とリリエナの安眠まで妨害するものだから渋々彼に譲ったのがいけなかった。
ソファーなんて物もない家では彼が来てからというものリリエナはベッドの横に布団を敷いて寝ている。おかげでリリエナの体は朝起きる度に節々が痛むのだ。
そんな我が儘放題な彼が寝ているベッドを半眼で睨みながらジリジリと武器を手にしたまま近付いた。
「…起きないでよ」
手にしたフライパンとおたまを寝ている彼の真上でけたたましく鳴らせば今まで溜っていた不満も一気に晴れるに違いない。
リリエナを支配しているのは私がしなくちゃといった使命感にも似た思いだった。
フライパンを持っては初めてだがこうして彼を起こすのも今日で3度目になる。この短い間で彼の寝起きの悪さは嫌という程思い知った。あの時の事を思い返せば自然と口はへの字を描く。
一度息を整えてベッドの中を覗き込めば、頭まで布団を被った彼がそこにいた。
少し癖のある、一束の金髪がシーツの上に散らばっていて窓から溢れる光を吸収したそれを見て今からしようとしている事も一瞬忘れてしまい不覚にも綺麗だとリリエナは思った。
息を潜め、更に近付き起こしてしまわない様に頭まで被った布団をゆっくりと剥げば、そこに現れた人はまさしく外見だけは王子様の名に相応しい人物だった。
金糸の髪を贅沢に布団に散らし、髪よりも少し淡い睫毛はときおり小さく震えている。その先へと続く瞳の色をリリエナは知っている。薄く開いた唇は女のリリエナが嫉妬してしまう程に形良く整っており、馨る様な色気がある。それなのに寝顔はどこかあどけなく、無垢だった。まるで安心しきった幼子の様に。
「…気持ちよさそうに寝ちゃってさ、人の気も知らないで」
さっきまであった悪戯な気持ちが急速にしぼんでいく。流石にフライパンで起こすのは酷ではないだろうかという思いすら芽生え始める。これから夏休み終了までの二ヶ月近くは彼との二人きりの生活が続くのだからこんな関係が悪化する様な事はやめた方が良いのだろう。元は彼に対する怒りからだったが、好奇心が混ざっていなかった訳ではない。そうだ、そうしよう。そう思い両手に持っていた物を置こうとしたときだった。
「ん…眩し…」
窓から入り込む光に顔をしかめモゴモゴと口を動かす彼を見た瞬間まずいと思った。
この家の主人なのだから隠れる必要はないけれどたった今、やましい事をしようとしたリリエナの頭に瞬時に浮かんだのは「隠れなければ」という思いだった。
ざっと部屋を見渡すが簡素な部屋の中ではリリエナが隠れられる場所はない。
慌てて近くにあった引き出しに取り合えず手にしていたフライパンとおたまを入れるが、動揺し過ぎて右の人差し指を挟んでしまった。
「ーーいっ!」瞬間襲ったのは突き抜ける様な痛み。激痛とまではいかないが、じわじわと熱を伴った痛みは中々引かずたまらず人差し指を口にくわえ、その時をやり過ごそうとする。なんだこれは、悪戯をしようとした天罰か。
「…お前、何してんの。てか何で居るんだよ」
気付いたときには彼はベッドの中で片肘を付き起き上がろうとしている所だった。不審人物を見る様に少し吊り上がり気味な目でリリエナをじとりと睨む。まだ完全には目が覚めていないのか先程まで閉じられていた碧い瞳はいまだ半分夢の世界の様にとろりと瞬きを繰り返していた。くあと彼の口から欠伸がひとつ。
そんな彼のリリエナとは対照的な姿に指先の痛みも相俟って先程まで萎んでいた筈の苛立ちに似た感情がふつり、と沸き起こる。
「随分とごゆっくりね。見てよ、もう太陽があんなに高い所にあるわよ。王子様、私と違ってみんなお昼まで寝てるのかしら?」
ツンと鼻を高く上げて皮肉を込めてわざとらしく言えば、彼は「うっせぇな」と舌打ちと共に乱暴に金の頭を掻いた。只でさえ毛先が癖で軽くうねっているのに更にボサボサになっている。
「俺が何時まで寝て様がお前にかんけーねぇだろ。早く出てけ!」
この台詞もここ数日のお決まりのパターンだった。続いてリリエナが怒るというのが常だったが今日は違う。
「残念ね、今日は関係があるのよ」
「…なんだよ?庭の草むしりならしないからな」
「違うわよ」
働かざる者食うべからず、とは良く言ったものでリリエナはその考えに多いに賛成だった。当然彼にも何かしらしてもらうつもりでいた。そして最初に頼んだのが庭の草むしりだ。勿論、今も雑草が繁る庭を見れば彼が草むしりをしなかった事など一目瞭然だ。しかしリリエナは悪い方ではなく良い方に考えてみようと思う事にした。一通りこちらの事情と、夏休みが終わる二カ月間はリリエナと一緒に居なければいけない理由は話したが、簡単に「はいそーですか」と納得するのは無理だろう。
いきなりリリエナに知らない世界に喚びだされたかと思うと、ご飯を食べる代わりに働けと言うのはなんとも此方の都合ではないのか。反発したくなるのも無理はないだろう。少なくともリリエナならば泣き喚き「今すぐ帰して!」と訴える。しかも彼の様な性格ならば尚更だ。
良く良く考えればリリエナだって彼の事を考えていなかったのだ。あれは駄目、これをしろと自分を押し付けるばかりで。
「お昼ご飯を食べたら今日は町に行くのよ。だから貴方も早く準備して」
「…は?」
予想していなかった言葉に彼は頭を掻く手を止めた。見事に金髪が鳥の巣だ。
まずはコミュニケーションをとって互いを良く知らなければと、リリエナは先程彼をフライパンで叩き起こそうとした事を都合良く忘れる事にした。
「あなた頭が凄い事になってるわよ?ほら、早く起きて。この布団も干すから」
まだ半身が布団にある彼を無理矢理起こす様に布団を剥ぐと、リリエナが用意した質素なベージュ色をした服に包まれた彼が露になった。彼が持つのはこの服と元から彼が来ていた服の計二着のみ。
「…なぁ、俺外に出てもいいのか?」
「何言ってんの?行きたくないの?」
「ちげーよ!そんな事言ってねぇーし!」
慌てた風な彼をリリエナは変な物を見る様に見ていた。彼はそんなに家の中に居るのが好きなのだろうか。どうみても家の中で読書を楽しむタイプには見えない。
「貴方の服とか買いに行かなきゃいけないでしょ。私が全部勝手に選んで良いって言うなら無理して付いて来なくても良いけど」
「行かねぇ何て言ってねぇーだろ」
「じゃあ早く着替えて顔を洗ってきて」
なんなんだこの不毛な会話は、とリリエナは段々と呆れ始めていた。そして気付く。多分ここまで会話をしたのは彼が来た最初のとき以来だと。
内容は兎も角として妙な満足感を感じながら、畳んだ布団を両腕で抱えあげる。ここでドアに向かおうとしていたリリエナは「ああ、そうだった」と忘れていた事を思い出し、彼に告げる為に振り返った。
「おはよう、ルノワール」
「ルノワール?」
なんだそれ。と言いたげな彼の顔が目に映りリリエナは今日初めての笑みを彼に、ルノワールに向けた。
「貴方の名前よ。今日から貴方はルノワール」
「俺の、名前?」
まるでたった今目が覚めましたと言わんばかりに今日の青空の様な瞳を瞬かせ、リリエナを凝視している。ぽかんと口を開けているルノワールにリリエナは気に入らなかっただろうかと不安になった。
けれど名前がないと3日前に彼に告げられてからリリエナはずっと悩みに悩んだ挙げ句考えた名前なのだ。約束していた訳ではないが名前がないと不便だし、リリエナはこの名前の持つ意味程彼にぴったりな名前はないと思った。
嫌だと言われてもリリエナはルノワールと呼び続けるだろう。これからずっと「あなた」と呼ぶ訳にはいかない。
「じゃあ、私はお昼を作るから着替えたらリビングに来てね、ルノワール」
もうこれは決定なのだともう一度強くその名前を呼ぶ。今度こそ布団を抱えドアをくぐり閉め様とした寸前、まだベッドの上のルノワールに視線を流せばどこか居心地悪そうにしていた。
先程まであった不機嫌さや眠気はもうその碧い目には感じられない。
「名前……俺の」
ぽつ、と小さく何処か戸惑った様な声はしっかりとリリエナの耳にも届いた。雰囲気から嫌悪等は欠片も窺えず、あるのは純粋な驚きと僅かな喜び。
そんな彼の様子にリリエナも驚いていた。名前がないとは言っていたがそれは只リリエナに教えたくない反発心からくるものだと思っていたからだ。まさか本当だったのだろうか。
だとしたらリリエナが名付け親になるのかと考えたらなんだかおかしかった。扉を閉める寸前で振り返る。
「ルノワール!じゃあね」
「お、おう!」
思わずといった返事の後、しまったとばかりに口を手で覆うルノワールの姿にリリエナはたまらず笑みをこぼした。
閉じた扉の向こうできっと今頃「ちくしょう」と言いながら又あの金の髪をかき乱しているのだろう。まだ出会って短いがそんな事が分かる位には彼の事が知れた気がして、気付けばリリエナは鼻歌を歌っていた。
なんだかルノワールと仲良くなれそうな気がする。
今日のリリエナはいつになくご機嫌だ。




