王様のルール
銀座の高級時計店に、静かな緊張が走った。
俺の無茶な要求に、若い店員の顔からは完全に血の気が引いている。
彼は「少々お待ちください」と絞り出すと、震える足で店の奥へと消えていった。
俺は、出された高級ミネラルウォーターを飲みながら、ゆったりとソファに身を任せる。
どうせ、すぐに支店長か何かが、泣きそうな顔で出てくるのだろう。
そして、「申し訳ございませんが、当店のルールでして…」と、決まりきったセリフを繰り返すに違いない。
だが、俺が書き換えたいのは、まさにその「ルール」そのものだ。
数分後。
店の奥から出てきたのは、いかにもやり手といった雰囲気の初老の支店長だった。
彼の顔には、困惑と、ほんの少しの好奇が浮かんでいる。
「お客様。ここの責任者をしております、白石と申します」
「どうも」
「…先ほど、担当の者から話は伺いました。お客様がご所望の時計は、いずれも世界中のVIPが数年待ちのリストにお名前を連ねていらっしゃる大変希少なモデルでして…」
「だろうな」
俺は、彼の言葉を遮った。
「で、どうなんだ?今日、持って帰れるのか、帰れないのか。俺が聞きたいのは、それだけだ」
白石と名乗った支店長は、俺の目をじっと見つめた。
探るような、値踏みするような視線。
俺は、その視線を逸らさずに静かに受け止めた。
やがて、彼は観念したように深いため息をついた。
「…もし、仮に、です。仮に、本日それらの時計をご用意できたとして。お客様は、正規の価格以外に何を我々にご提供いただけますか?」
話が早い。
俺は、口の端に笑みを浮かべた。
「そうだな…。あんたらの、スイス本社との面倒なやり取り。本来なら、数年後にこれらの時計を受け取るはずだった、どこかの国の王様か大富豪からのクレーム。そういう『迷惑料』込みで、いくら払えばいい?」
俺の言葉に、白石は目を見開いた。彼が言外に匂わせたことを、俺が完璧に理解したことに驚いたのだろう。
「…勉強させていただきます」
白石は、深々と頭を下げると店の奥にあるオフィスへと姿を消した。
受話器を取り、どこかへ電話をかけ始めたのがガラス越しに見える。
相手は、おそらくスイスの本社だろう。
彼の表情は、みるみるうちに険しくなっていく。
英語か、フランス語か。
時折、声を荒げながら必死に何かを説得しているようだった。
俺は、その光景を、まるで映画でも見るかのようにただ静かに眺めていた。
東京の銀座で、俺というたった一人の人間のために世界のルールが今まさに捻じ曲げられようとしていた。
一時間後。
白石は、汗だくの顔に、疲れと興奮が入り混じった奇妙な表情を浮かべて俺の前に戻ってきた。
「お客様。…お待たせいたしました」
彼の後ろから、別の店員が三つの重厚な箱をまるで祭壇に捧げ物を運ぶかのように恭しく持ってくる。
「こちらが、ロイヤルオーク。そして、ノーチラスと、オーバーシーズでございます」
箱が開けられ、目映い光が放たれる。
時計に興味のない人間でも、それがただの装飾品ではない芸術品であることが分かるだろう。
三つの時計の合計金額は、約3億円。
俺は、スマホで決済アプリを立ち上げると、その金額を何の躊躇もなく振り込んだ。
「…たしかに」
白石は、深々と本当に深々と頭を下げた。
「お客様。あなたは、当店の歴史上、最高の顧客です」
俺は、腕にずっしりと重い紙袋を提げて店を出た。
振り返ると、白石を始め店員全員が店の外まで出てきて俺の姿が見えなくなるまで頭を下げ続けていた。
その日の夜。
俺は、陽介と健司を俺のタワマンに呼び出していた。
「拓也、お前、昨日マジでヤバかったんだってな!ミナから全部聞いたぞ!一晩で8000万て、神かよ!」
陽介が、興奮気味にまくし立てる。
健司も、どこか遠い目をして俺の顔を見ていた。
「…拓也。お前、本当に俺たちとは違う世界の人間になっちまったんだな」
「バーカ。何も変わんねえよ」
俺はそう言うと、テーブルの上に、昼間買ったばかりの時計の箱を三つ並べた。
「ほらよ。お前ら、選べ」
「……は?」
陽介と健司の、間抜けな声が重なる。
「だから、好きなやつ持ってけって言ってんだよ。俺一人じゃ、腕は二本しかねえしな」
二人は、顔を見合わせた。
そして、恐る恐る、箱の中の時計を覗き込む。
時計の価値を理解した瞬間、二人の顔からサッと血の気が引いた。
「…む、無理無理無理!これ、家買える値段のやつだろ!?」
健司が、後ずさりしている。
「いらねえのか?じゃあ、捨てるか」
俺が、ゴミ箱に捨てるフリをすると、陽介が慌てて時計の箱を抱きしめた。
「捨てるわけねえだろ!神様!仏様!拓也様!」
陽介は、そのまま時計の箱に頬ずりしている。
健司は、まだ信じられないという顔でただ立ち尽くしていた。
俺は、そんな二人を見て腹の底から笑った。
金で買えるものなんて、たかが知れている。
だが、金でしか見られない、ダチのこんな最高の顔があるなら俺はいくらでも使い続けてやろう。
そう、心に決めた。




