堕ちる右腕
陽介は、拓也からの勅命を受けたその瞬間から、別人のように変わった。
いつもの軽口は完全に消え失せ、彼の瞳には、目的を遂行するためだけの冷酷な光が宿っていた。
彼の背後には、佐藤財閥の情報網が持つ、全ての力がある。
そして、彼自身の夜の世界を支配する者としての、狡猾な経験がそれを完璧に補完する。
「黒田の娘、か」
陽介は、手に持ったタブレット端末の画面を見つめた。
そこに映し出されているのは、黒田の愛娘、黒田美咲のプロフィールだ。
名門私立大学に通う、絵に描いたような箱入り娘。
社交的で、華やかな生活を好み、ファッションやアートに強い関心を持っている。
そして、何よりも父親である黒田からの、深い愛情を独占している。
まさに、Mr.リーの右腕にとって、最も脆弱な「聖域」そのものだった。
陽介は、冷たい笑みを浮かべた。
「俺たちの王の聖域に土足で踏み込んだ報いだ。お前が一番大切にしているものを、徹底的に壊してやる」
彼の頭の中には、すでに、完璧な計画が組み立てられていた。
まず、陽介は、配下の情報部隊に命じ、黒田美咲のSNSアカウントを徹底的に解析させた。
彼女が頻繁に訪れる、六本木の高級カフェや、銀座のアートギャラリー、そして、彼女が夢中になっている、海外ブランドのポップアップストア。
その全てを、完璧に把握する。
そして、そこに、陽介が仕込んだ、「罠」を、静かに配置していった。
数日後。
黒田美咲は、友人数名と六本木の某高級カフェで、午後の時間を楽しんでいた。
話題の中心は、今、巷で最も注目されている、新進気鋭のファッションデザイナー、アキラのことだ。
彼のブランド「GAIA」は、斬新なデザインと、独自の哲学でファッション業界に旋風を巻き起こしていた。
そして、何よりも彼のデザインする限定アイテムは入手困難なことで有名だった。
「ねぇ、美咲。知ってる?今日から、アキラの期間限定ポップアップストアが、銀座のアートギャラリーで始まったんだって!しかも、抽選でアキラ本人に会えるらしいのよ!」
友人の言葉に、美咲の瞳がキラリと輝いた。
アキラは、彼女が今、最も憧れているデザイナーだ。
彼の作品は毎回入手困難で、オークションでは信じられないような高値で取引されている。
そのアキラに会えるチャンスがあるなんて!
「えっ、本当!?行こう!今すぐ行こうよ!」
美咲は、興奮を抑えきれない様子で席を立った。
しかし、その興奮の裏で、彼女はすでに陽介の緻密な罠の最初の網にかかっていたのだ。
ポップアップストアの「限定抽選」も、そして、「アキラ本人に会える」という情報も、全て陽介が美咲の行動パターンに合わせて、巧妙に作り上げた情報だった。
♢
銀座のアートギャラリー。
ポップアップストアは、予想通り美咲のような若者たちでごった返していた。
限定アイテムを求める客たちの熱気に包まれる中、美咲は興奮冷めやらぬ様子で抽選の列に並んだ。
そして、運命の抽選。
美咲の前に立ったのは、陽介がこの日のために特別に雇ったプロの演出家だった。
「おめでとうございます!なんと、あなたが本日の特別賞に当選されました!後ほど、デザイナーのアキラ様とのプライベートな面会にご案内いたします!」
演出家の言葉に、美咲は信じられないといった様子で感極まった表情を浮かべた。
周囲の客たちからは、羨望の眼差しと拍手が送られる。
美咲は、まるで夢の中にいるような気分だった。
憧れのアキラに会える!
最高の体験だ!
しかし、この時、美咲は知る由もなかった。
彼女の背後で、陽介が冷徹な目でその全てを見届けていたことを。
「次のステージだ。準備を進めろ」
陽介は、耳元のインカムに短く指示を出した。
彼の声には一切の感情がなかった。
ただ、獲物を仕留めるハンターの冷たい殺意だけがそこに宿る。
♢
翌日。
美咲は、アキラとの面会を終え、興奮冷めやらぬ様子で自宅へと戻ってきた。
憧れの人に会えた喜び。
そして、彼から、直接、限定アイテムをプレゼントされた最高の体験。
彼女のSNSは、その喜びを分かち合おうと次々と更新されていく。
「アキラ様、本当に素敵だった!」
「限定アイテム、ゲットしちゃった!」
「最高の思い出!」
写真には、満面の笑みを浮かべた美咲と、彼女の隣に立つ陽介が用意した「偽のアキラ」が、写り込んでいた。
だが、その数時間後。
黒田美咲のSNSアカウントは、突然炎上した。
彼女が投稿したアキラとのツーショット写真が、インターネット上で急速に拡散されたのだ。
そして、写真には別のユーザーからの悪意に満ちたコメントが、瞬く間に殺到していった。
『この女、有名デザイナーと寝てるんじゃないか?』
『限定アイテムって、裏ルートで手に入れたんだろ』
『パパ活か?金持ちの娘は、やることが違うな』
『このデザイナー、売れてるのになんでこんな女と…』
それは、陽介が計画の最終段階として、用意した、「炎上工作」だった。
美咲の行動パターン、彼女の持つ承認欲求、そして世間の嫉妬の感情。
その全てを、陽介は完璧に計算し尽くしていたのだ。
黒田美咲は、混乱した。
何が起こっているのか理解できない。
彼女の、今まで大切にしてきた輝かしい日常が、一瞬にして悪意の炎に包まれていく。
そして、この炎上は瞬く間に黒田の耳にも届くことになる。
「馬鹿な…美咲が…!」
黒田は、娘の炎上騒動を知り、激しく動揺した。
SNS上での娘への誹謗中傷。
そして、それが彼の事業にも飛び火し始めている。
Mr.リーの右腕として、冷徹な判断を下してきた彼が、娘の危機に冷静さを失い始めていた。
陽介は、この一連の動きを、アマンの書斎にある巨大モニター越しに、拓也と共に静かに見守っていた。
彼の口元には冷たい笑みが浮かんでいる。
「拓也、次の手は…」
「ああ。舞台は整った。次はお前が直接奴の前に姿を現せ」
拓也の声は、静かだが、その奥には明確な殺意が宿っていた。
Mr.リーの右腕、黒田。
奴の最も大切な聖域は、今、王の手によって完全に蹂躙されつつあった。
そして、その報復は、まだ始まったばかりだ。




