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聖域への侵犯

 その日の朝。

 俺は、ひかりを小学校まで送り届け、いつものように楓が淹れてくれたコーヒーを片手に書斎で仕事を始めていた。

 Mr.リーの次の手は何か。

 FLEURへの敵対的買収は、まだ序章に過ぎない。

 俺は彼の動きを予測し、あらゆる可能性をシミュレートしていた。


 その時、俺のスマートフォンの緊急回線がけたたましい音を立てた。

 着信は健司からだった。

 彼の声は今までに聞いたこともないほど切羽詰まっていた。


『拓也…!落ち着いて、聞いてくれ…!神保町の楓さんのカフェに…!』


 健司の荒い息遣い。

 その声の向こうで、何かが軋むような音が聞こえる。

 俺の脳裏に最悪のシナリオが一瞬で駆け巡った。


『今健司が向かっている。すぐに向かってくれ!』


 俺は、電話を切ると書斎を飛び出した。

 アマンのエントランスには、すでに健司が手配した防弾仕様のリムジンが待機していた。

 運転手は俺のただならぬ雰囲気を察し、何も言わずに猛スピードで神保町へと車を走らせる。


 車の中。

 俺は自分に言い聞かせた。

 冷静になれ。

 まだ、何が起こったかは分からない。

 だが健司があれほど動揺しているということは…。


 数分後、車は神保町の裏通りにある『楓書店』の前に到着した。

 俺は車を降りた瞬間、目の前の光景に息を呑んだ。

 店はまるで嵐が通り過ぎたかのように無残な姿を晒していた。


 ガラス戸は粉々に砕け散り、棚から叩き落とされた本が床一面に散乱している。

 カウンターのコーヒーカップは割れ、コーヒー豆の香ばしい匂いの代わりに焦げ付いたような嫌な匂いが立ち込めていた。

 店の中央には、楓が膝を抱えるようにしてうずくまっている。

 その肩は小刻みに震え、顔は涙で濡れていた。


「楓…!」


 俺は駆け寄ろうとした。

 だが、その時、店の中から数人の男たちがのそりと現れた。

 彼らは作業服のようなものを着ていたが、その顔には隠しようのない暴力的な雰囲気が漂っている。

 地上げ屋。

 その顔には、Mr.リーの影が明確に見えていた。


 男たちは、俺の姿を見ると一瞬ギョッとした顔をした。

 だが、すぐにその表情を嘲笑に変える。


「おや、どちら様かな?ここはもうすぐ立ち退く店のようだがね」


 リーダー格らしき男が、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべた。

 俺は、楓を自分の背中に庇うように前に立つ。


「貴様らが何者かは知らん。だが、この店は俺の妻の店だ」


 俺の声は凍りつくように冷たかった。

 地上げ屋たちは、俺の言葉に鼻で笑った。


「へぇ?奥様の店ねぇ。だが、ここの土地はもう新しいオーナーの所有物だがな。君の奥様には、早く立ち退いてもらわなくては困る」


「…新しいオーナーだと?」


 俺は、奥歯をギリと噛み締めた。

 Mr.リーは、いつの間にこの土地を…!

 俺は、楓をこんな危険な目に遭わせないために、彼女の店の周辺の土地を全て買い占め万全の防衛策を敷いていたはずだ。

 だが、俺の知らぬ間にその防衛網が突破されていた。


 その時、健司が数名の屈強なSPを引き連れて現場に到着した。

 彼の顔は怒りで真っ赤に染まっている。


「拓也!こいつら、Mr.リーのダミー会社が送り込んだ地上げ屋だ!楓さんの土地は数日前に極秘裏に奴の息のかかった会社に買い取られていた!」


 健司の言葉に、俺の理性の箍が完全に外れた。

 俺の聖域。

 俺が何よりも大切に守り抜くと誓った楓の店がこんなにも無残な姿に。

 そして、楓自身がこんなにも深く傷つけられている。


 俺は、Mr.リーの地上げ屋たちにゆっくりと視線を向けた。

 俺の瞳は、もはや人間の感情を宿してはいなかった。

 ただ、純粋なそして絶対的な殺意だけがそこに宿る。


「…貴様ら」


 俺の声は地の底から響くような重く低い声だった。


「二度と俺の妻に指一本触れるな。そして、この店に二度と近づくな」


 地上げ屋たちは、俺のそのあまりにも恐ろしい形相に一瞬怯んだ。

 だが、リーダー格の男はまだ虚勢を張っている。


「なんだと?あんた、佐藤拓也か?まさかこんなボロい店に顔を出すとはな。しかし、ここはもう我々の土地だ。邪魔をするならただでは済まさんぞ」


 その瞬間。

 俺の右手が電光石火の速さで男の襟首を掴んだ。

 そして、そのまま何の躊躇もなく男の体を粉々に砕け散ったガラス戸の向こうへ投げ飛ばした。

 男の体がアスファルトに叩きつけられる鈍い音。

 他の地上げ屋たちは、そのあまりの暴力に一瞬で血の気が引いた。


「…貴様らに、明日はない」


 俺は、そう冷たく言い放った。

 俺の聖域を汚した罪。

 Mr.リー。

 お前は、決して開けてはならないパンドラの箱を開けてしまったのだ。

 俺の愛する家族に、牙を剥いたその罪。

 お前の命一つでは、到底償いきれないということを、これから骨の髄まで教えてやる。


 王の本当の逆襲が、今、始まろうとしていた。

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