聖域への影
「エリカ、もう少し詳しく話せ」
定例評議会で、エリカが口にした「海外の複数の大手ファンドによる株式買い集め」という言葉。
それが俺の心に鋭く突き刺さっていた。
評議会が終わった後、俺は彼女だけを呼び出し書斎に残っていた。
陽介と健司は、それぞれの持ち場へと戻っていったが、彼らの顔にも同じような懸念の色が浮かんでいたのは明白だ。
Mr.リーが仕掛けてきた代理戦争。
その本質がついに露わになり始めた、その予兆に誰もが戦慄していた。
『ええ。数週間前から海外のペーパーカンパニーを経由して、断続的に、そして、非常に巧妙にFLEURの株が買い集められているわ。市場では一切目立たないよう数株単位で着実に。まるで、私たちの反応を慎重に嘲笑うかのように伺っているかのようにね』
エリカの声はモニター越しでも普段の強気な声とは違い、わずかに緊張を帯びていた。
彼女は常に冷静でビジネスの戦場では一切の感情を表に出さない女だ。
そんな彼女がここまで追い詰められているのは珍しい。
それだけ、Mr.リーのやり方が周到で悪質だということだ。
「買い集めているのは、Mr.リーの息のかかったファンドか?」
俺の声は自分でも驚くほど冷たく、そして静かだった。
だが、その内側ではマグマのように熱い怒りが、ゆっくりと確実に煮えたぎり始めていた。
『可能性は限りなく高いわ。だが、確たる証拠はまだ掴めていない。彼らは複数のダミー会社を使い、情報のトレーサビリティを徹底的に隠蔽している。マネーロンダリングのプロ集団でもここまで巧妙にはやらないでしょうね。これは、ただの敵対的買収じゃない。私たちを、精神的に追い詰めるための心理戦よ』
エリカの言葉に、俺は眉間の皺を深くした。
敵対的買収。
Mr.リーは、ついに俺の帝国の中核である「FLEUR」を本格的に奪いに来たのだ。
これは、これまでの代理戦争とは意味が違う。
明確な宣戦布告。
そして、それは、俺の築き上げてきたものを根本から破壊し、俺の存在そのものを否定しようとする憎悪の表れだった。
そして、その攻撃は聖域への第一歩となる可能性を秘めていた。
「…それだけか?他に気になる動きは?」
俺が静かに有無を言わせぬ圧力で尋ねた。
すると、エリカは一瞬口ごもった。
彼女の視線がモニターの隅を彷徨う。
何かを言い淀んでいる。
『…実は、もう一つ、どうしても拓也さんに報告しておかなければならないことがあるの』
彼女は少しだけ声を潜めた。
その声にはビジネスパートナーとしての報告というよりも、個人的な焦りや悔しさが滲んでいるようだった。
『私の会社の数名の古参デザイナーが、最近次々と辞表を提出しているわ。理由を聞いても曖昧な返答しかなくて。「新しい環境で新しい挑戦がしたい」とか、「自分のクリエイティブなビジョンをもっと自由に追求したい」とか…耳障りの良い言葉を並べるばかりでね。だが、その中の一人がMr.リーが買収したライバルブランドに移籍したという確かな情報が私の耳に入ってきたの。それも破格の信じられないような条件で』
「引き抜きか」
俺は冷たく言い放った。
「FLEUR」の中核を担う才能あるデザイナーの引き抜き。
ブランドの魂を根こそぎ奪い去ろうという悪辣な手口。
Mr.リーは、俺の大切な仲間たちを金で懐柔し内側から切り崩そうとしている。
彼が、俺の弱点どころか最も大切にしている部分を正確に把握していることに戦慄した。
「…承知した」
俺は、静かにモニターの電源ボタンを押した。
エリカの顔が画面から消える。
書斎には重苦しい沈黙が戻った。
俺の深いため息だけが静かに響く。
俺は窓の外を見た。
夕日はすでに地平線に沈み、東京の夜景がゆっくりとその光を増していく。
煌めくネオンの光が、俺の心を一層冷たく研ぎ澄ませていく。
Mr.リーは動いた。
沈黙を破り、ついに本丸への攻撃を開始したのだ。
しかも、その標的は、拓也がエリカという才能と共に築き上げてきた、まさに、彼の「美的センス」と「プロデュース能力」の象徴とも言える、FLEUR。
これは単なるビジネス上の攻撃ではない。
俺への個人的な宣戦布告だ。
俺の築き上げてきたものを、全て否定し奪い取ろうとしている。
まるで、俺の過去の成功そのものを嘲笑うかのように。
だが、それだけではまだ足りない。
俺が本当に牙を剥くのは、聖域、つまり楓とひかりに直接危害が及んだ時だ。
俺は、そう自分に言い聞かせた。
自らに最後の理性を繋ぎ止める。
まだ、その時じゃない。
まだ、冷静でいろ。
その時、書斎のドアが静かに開いた。
ひかりだった。
彼女は学校の宿題であろう、算数の問題集を手に俺の元へと駆け寄ってくる。
その目には、俺が読んでいる難しい経済書に興味津々といった様子で輝きを宿している。
「パパ、これ何のお話?なんだか難しそうなグラフがいっぱい」
「これはな、ひかり。大人たちのちょっとしたゲームだよ。お前にはまだ少し難しいかな」
俺は、ひかりを膝に乗せ、優しくその頭を撫でた。
彼女のその無垢な笑顔。
この笑顔だけは、何があっても俺が守り抜く。
そのためなら、俺はどんな怪物にでもなる。
どんな汚れ仕事でも、躊躇なくやってのける。
Mr.リー、お前がどんな手を使ってこようとも俺の聖域には指一本触れさせない。
その覚悟だけは誰にも揺るがせはしない。
俺は改めて心に誓った。
Mr.リー。
お前が俺の聖域に、一歩でも足を踏み入れたその瞬間。
お前の全ての運命は終わりだ。
そう、静かに覚悟を固めていた。
だが、その覚悟がこれから起こる想像を絶する事態のほんの布石に過ぎないことを。
この時の俺はまだ知る由もなかった。




