膠着と、王の焦燥
伊豆でのつかの間の休日を終え、俺は再びアマンの書斎に戻っていた。
巨大モニターには、健司、陽介、そしてエリカの三人の仲間たちの顔が、それぞれのオフィスから映し出されている。
週に一度の定例評議会。
だが、その空気は一ヶ月前と変わらず重く淀んでいた。
「…報告しろ、健司」
俺が、静かに口火を切った。
健司は疲労の色を隠せない顔で、一枚の複雑なチャートを画面に表示させた。
『拓也。状況は変わらず。経済戦争は完全に膠着状態だ』
健司の声が、スピーカーから硬質に響く。
『俺たちが、奴の関連企業に攻撃を仕掛ければ、奴はどこからか無限とも思える資金を投入して株価を買い支えてくる。逆に、奴らが俺たちの傘下企業に揺さぶりをかければ、俺たちもまた防衛のために莫大な資金を投入せざるを得ない。この一ヶ月で財閥が失った金は、3000億を超えた。もちろん、敵も同等か、それ以上の損害を出しているはずだ。だが、その減り続ける資産のグラフが、奴の精神に一切の動揺を与えているようには見えない。むしろ、楽しんでいるようにさえ…』
健司は、言葉を濁した。
その言いたいことは、俺にも痛いほど分かっていた。
俺たちの資産には限りがある。
だが、敵の資産は、その源泉さえもが不明なのだ。
まるで、無限に湧き出る泉と戦っているような不毛な消耗戦。
次に、陽介が、深いため息をついた。
その目には、少しだけ苛立ちの色が浮かんでいる。
『メディアも同じくだ。いや、むしろ、少しずつ押され始めてる。奴らは、日本の老舗メディアにまで、すでに深く食い込んでいるらしい。俺たちが奴の悪評を流せば、奴はその十倍の物量で自分を「日本の旧弊を打破する改革者」として世界中に喧伝する。ハリウッドスターや世界的な文化人を使った巧みなイメージ戦略は、まさに現代のプロパガンダ。日本の世論は、もはや真っ二つだ。「キング・サトウ」を支持する古い世代と、「Mr.リー」に熱狂する、新しい世代とにな。このままじゃいずれ俺たちの声は完全にかき消される』
最後に、エリカが悔しそうに唇を噛んだ。
彼女の常に完璧だったメイクにもわずかな乱れが見て取れた。
『ファッション業界も泥沼よ。彼は、もう、ブランドの価値を競うことさえ放棄したわ。彼が買収した複数のブランドが、私たちの「FLEUR」と全く同じデザインの製品を半額以下の値段で市場にばら撒き始めた。これはビジネスじゃない。ただの、ブランドイメージを破壊するためだけの焦土作戦。私たちの体力とブランド力が尽きるのを、ただ、待っているのよ。そして、今、新しい兆候がある。海外のいくつかの大手ファンドがFLEURの株式を水面下で買い集めているという情報が…』
エリカの言葉に、俺の眉間に深い皺が刻まれた。
敵対的買収の準備。
Mr.リーは、すでに次のステージへと動いている。
三つの戦場、その全てで俺たちは決定的な勝利を掴めずにいた。
どころか、徐々に状況は不利になりつつある。
俺は、静かに目を閉じた。
俺は、敵を甘く見ていたのかもしれない。
Mr.リーは、ただの金持ちではない。
彼は、俺と同じ、あるいはそれ以上にこの「ゲーム」の本質を理解している。
そして、俺よりもずっと冷徹で残酷だ。
まるで、俺の過去の影を見ているかのようだ。
評議会を終えた後も、俺の心は晴れなかった。
書斎の窓から夕暮れの東京を見下ろす。
美しい平和な景色。
だが、この景色の見えない場所で俺の帝国は、少しずつ、しかし、確実に蝕まれている。
Mr.リーは、決して手を緩めない。
このまま消耗戦を続ければ、いずれ俺たちの帝国は疲弊し崩壊するだろう。
必要なのは新しい一手。
敵の予想を超えた神の一手だ。
だが、その一手は、まだ、見えない。
焦燥感が、俺の胸の奥で、静かに、しかし、熱く燃え盛り始めていた。
「…拓也さん?」
書斎のドアが、静かに開いた。
楓だった。
彼女は、俺のただならぬ雰囲気を察したのだろう。
何も聞かずに、ただ、静かに俺の隣に立つと、同じように窓の外を見つめた。
「…綺麗な、夕日ですね。ひかりが言っていましたよ。明日はパパと一緒に公園に行きたいなって」
彼女のその何気ない一言。
それが、張り詰めていた俺の心を少しだけ解きほぐしてくれた。
そうだ。
俺には、まだ守るべきものがある。
俺が戦う理由はここにある。
俺は楓の肩をそっと抱き寄せた。
「…すまない。少し考え事をしていた」
「いいえ。私は、ただ、ここにいるだけですから。でも…無理はしないでくださいね」
その温もり。
その絶対的な信頼。
それこそが、俺の最後の砦だった。
だが、その時、俺は、まだ気づいていなかった。
俺がこうしてわずかな安らぎを得ている、まさにその瞬間にも。
敵の見えざる牙が、俺の、この最後の砦、このかけがえのない聖域そのものへと、静かに、確実に迫ってきているということに。
Mr.リーの、本当の攻撃はこれから始まるのだ。
俺の焦燥。
それは、これから始まる本当の悪夢のほんの序章に過ぎなかった。




