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王様の貸し切り

 娘の学芸会という父親としての大仕事を終えた数日後の夜。

 俺は楓を二人きりのデートに誘った。


「拓也さん、どこへ行くんですか?ひかりは健司さんの奥様が見てくださっているとはいえ、あまり遅くはなれませんよ」


 ロールスロイスの後部座席で、楓が少しだけ心配そうな顔をして尋ねる。

 俺は行き先を告げていなかった。

 今日のこの夜は、彼女への、そして俺自身への特別な贈り物にしたかったからだ。

 戦いの前の最後の穏やかな夜に。


「まあ、着いてからのお楽しみだよ。たまにはいいだろ?母親を少しだけ休ませてやるのも夫の仕事だ」


 車が停まったのは六本木のど真ん中。

 俺がオーナーを務める「Club Z」が入るあの煌びやかなビルディングの前だった。


「…Z、ですか?」


 楓が少しだけ戸惑ったような顔をする。

 彼女をこの店に連れてきたことは、結婚式の後一度だけしかない。

 穏やかな彼女にとって、この欲望が渦巻く夜の世界は決して居心地の良い場所ではないだろう。

 そのことを俺は誰よりも分かっていた。


「心配するな。今夜は少しだけ様子が違うから」


 俺は彼女の手を取りエントランスへと向かった。

 ドアマンが深々と頭を下げ重厚な扉が開かれる。

 そして、楓は目の前に広がる光景に息を呑んだ。


 店内は静まり返っていた。

 金曜の夜だというのに客の姿は一人も見えない。

 あれほど耳を劈くようだった熱狂的な音楽も完全に鳴りを潜めている。

 きらびやかなシャンデリアの光だけが、誰もいない広大なフロアを静かに照らし出している。

 BGMには俺が楓のために選んだ穏やかなビル・エヴァンスのピアノジャズが静かに流れていた。


「…これは。お店どうしたんですか?」


「ああ。今夜は、貸し切りだ。俺とお前二人だけのためにな」


 俺は店の全ての営業を止めさせていた。

 その損失額は億を超えるだろう。

 だが、そんなことはどうでもよかった。

 俺はこの城を、今夜だけは楓のためだけの静かな夢の空間にしたかったのだ。

 他の誰にも邪魔されずに、ただ、二人きりで話がしたかった。


 俺たちは、かつて俺が王として君臨していたあの玉座(VIP席)に、二人きりで座った。

 テーブルの上には、世界最高のシェフを呼び寄せて作らせた楓の好物だけがコース料理として完璧なタイミングで運ばれてくる。


「…すごい。こんなことできるんですね。まるで映画の世界みたいです」


 楓が子供のように目を輝かせている。

 その純粋な驚きが俺の心を温かくした。


「俺は王様だからな。俺の国ではどんな魔法だって使えるんだぜ」


 俺はそう言って彼女のグラスにドン・ペリニョンの最高級のヴィンテージを注いだ。

 私たちは誰にも邪魔されず、ゆっくりと食事と会話を楽しんだ。

 ひかりの将来の夢のこと。

 楓が最近新しく始めたカフェの焼き菓子のこと。

 俺たちが初めて出会ったあの日の神保町の西日のこと。


 話している内容はあの小さなカフェで話すことと何も変わらない。

 だが、この日本で最も華やかで欲望に満ちた場所で、たった二人きりでそんな穏やかな時間を過ごす。

 その究極のギャップがどうしようもなく贅沢で、そして愛おしかった。


 食事が終わった後、俺は楓の手を取りダンスフロアの中央へとエスコートした。

 そして、流れる美しいワルツに合わせてゆっくりと踊り始めた。

 楓は最初は少しだけ戸惑っていたが、すぐに俺のリードにその身を預けてくれた。


「拓也さん」


 俺の胸の中で、楓が夢見るような声で呟いた。


「私、今すごく幸せです」


「俺もだよ、楓」


 俺は彼女をそっと抱きしめた。


「…少しだけ、疲れたか?」


 俺はダンスを終えた彼女に微笑みかけた。


「最高のベッドを用意させてある。今夜は何も考えずにゆっくりと休んでいけ」


 俺はこの城の秘密の最上階にある俺のためだけに作られたロイヤルスイートルームへと、彼女をエスコートしていく。


 王がたった一人の女性のために、城中の全ての明かりを消した夜。

 そのあまりにロマンチックな伝説の意味を知る者はまだ誰もいなかった。


 だが、俺たちの本当の戦いが、もうすぐそこまで迫っていることを、俺だけは静かに覚悟していた。

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