世界のルール
その夜の会計が、最終的にいくらになったのか俺は正確には覚えていない。
たしか、8000万円を超えていたような気がする。
もはや、ただの数字の羅列にしか見えなかった。
俺は表情一つ変えず、黒いカードで支払いを済ませた。
店を出る時、店の前には黒服やキャストたちがズラリと並び、俺が見えなくなるまで深々と頭を下げ続けていた。
その光景は、まるで王族か何かを見送るかのようだった。
隣を歩くミナは、まだ夢でも見ているかのように放心したままだった。
「…拓也さん」
「ん?」
「私、今日のこと、一生忘れません」
「大げさだな」
「大げさじゃありません。あなたは、私の人生を変えたんですから」
彼女の瞳には、以前とは全く違う色の光が宿っていた。
客とキャストという関係性は、あの瞬間に完全に壊れたのだ。
俺は、彼女の世界のルールそのものを書き換えてしまった。
タクシーに乗り込み、ミナを彼女のマンションまで送る。
車内で、彼女はほとんど喋らなかった。
ただ、時折、信じられないものを見るような目で俺の横顔をじっと見つめているだけだった。
マンションのエントランスで彼女を降ろす。
「じゃあな」
俺がそう言ってドアを閉めようとすると、ミナが慌てて俺の腕を掴んだ。
「待って…!」
「どうした?」
「…あの、もし、よかったら…。少し、上がっていきませんか?」
その誘いが、何を意味するのか。
俺に、分からないはずがなかった。
翌日、俺がタワマンのリビングで目を覚ますと、スマホが通知で埋め尽くされていた。
陽介と健司からの、驚愕と興奮が入り混じったメッセージ。
そして、昨夜の店の黒服や店長からの丁寧すぎるほどの挨拶の連絡。
六本木の夜の噂話は、光よりも速い。
昨夜の出来事は、すでに業界中に知れ渡っているだろう。
「とんでもない客が現れた」と。
俺は、そんな通知を全て無視して窓の外を眺めた。
快晴の空の下、東京の街がジオラマのように広がっている。
俺は、この世界のルールを少しだけ理解した気がした。
金があるだけではダメだ。
その金を、どう使うか。
常識の範囲内で使っているうちは、ただの「金持ち」でしかない。
だが、常識を破壊するほどの使い方をした時、人は初めて「神」を見るのだ。
俺は、クローゼットから一番ラフな格好を選ぶと外に出た。
向かったのは、高級腕時計が並ぶ銀座の正規店だ。
「何かお探しでしょうか?」
店員が、丁寧だが値踏みするような視線を向けてくる。
俺は、ショーケースの中を指差した。
「あれ。オーデマ・ピゲの、ロイヤルオーク。それと、あっちのパテック・フィリップのノーチラス。あと、ヴァシュロンのオーバーシーズも貰おうかな」
俺が指差したのは、どれも数千万円はする世界三大時計と呼ばれる代物だ。
しかも、その中でも特に人気が高く、普通に店に行ってもまず手に入らないと言われているモデルばかり。
店員の顔が、引きつった。
「お客様…。あいにく、そちらのモデルは…」
「知ってるよ。ウェイティングリストがどうとかだろ」
俺は、近くのソファにどっかりと腰を下ろした。
そして、足を組むと店員に向かって言った。
「俺は、待つのが嫌いなんだ。どうすれば今日、これ全部持って帰れる?」
俺の言葉の意味を理解した店員の顔が、みるみるうちに青ざめていく。
俺は、もう金に頭を下げさせることには飽きていた。
これからは、金でこの世界のルールそのものを俺の都合の良いように変えていく。
その方が、よっぽど面白い遊びだと思ったからだ。




