三つの戦場
俺が全面戦争を宣言した翌日の月曜日。
世界の金融市場は、ある一つの巨大な「鯨」の出現に騒然となった。
その鯨の名は、佐藤財閥。
俺の化身だ。
健司は俺の命令を完璧に、そして悪魔的なまでに冷徹に実行した。
彼が率いる百人以上の世界中から選りすぐられたトレーダーとアナリストで構成される財閥の投資部門。
そのチームは、その日一日で世界中のありとあらゆる業種の数十社の企業の株を、市場価格を完全に無視した圧倒的な金額で買い占めていったのだ。
ロンドン市場でドイツの化学メーカーの株を。
ニューヨーク市場でアメリカの航空宇宙産業の株を。
そして、東京市場で日本の伝統ある鉄鋼メーカーの株を。
その総額は俺が指示した5000億円を上回っていた。
一見何の脈絡もない気まぐれな爆買い。
世界中のアナリストたちが、その意図を読み解こうと頭を悩ませていた。
だが、その全ての企業に共通点が一つだけあった。
それは、全てがMr.リーの「リー・ホールディングス」がここ数年で買収してきた企業の最大の競合相手であるということだった。
健司が仕掛けたのは人類史上、最も金のかかった嫌がらせ。
そして、Mr.リーに対する明確なメッセージだった。
「お前が手に入れた全てのものを、俺はその隣でもっと大きく育ててやる。お前の帝国が喉から手が出るほど欲しがる技術も、人材も、市場も、全て俺が金で買い占めてやる。そして、お前の帝国を丸ごと時代遅れのガラクタに変えてやる」と。
世界の市場は、この正体不明の巨大資本「サトウ」の暴力的とも言える出現にパニックに陥った。
健司は、その混乱の中心で、静かに、しかし確実に敵の帝国の土台を蝕んでいく。
かつての気弱なサラリーマンは、今や世界の市場を指先一つで動かす冷徹な魔王となっていた。
時を同じくして、陽介もまた彼の戦場で戦いを始めていた。
彼が支配する日本のメディアとエンターテイメントの世界。
そこでは、静かな、しかし致命的なネガティブキャンペーンが水面下で一斉に開始されていた。
Mr.リーが日本で買収したミシュラン星付きの高級レストラン。
その店の衛生管理に関する告発記事が、ある週刊誌にスクープとして掲載された。
もちろんその情報は陽介が裏社会の情報屋を使いでっち上げたものだ。
彼が支援するファッションブランド。
そのブランドの盗作疑惑がSNS上でインフルエンサーたちによって一斉に拡散された。
もちろんそのインフルエンサーたちは陽介の会社が裏で契約している秘密の部隊だ。
彼が関わるあらゆる事業に、次々と説明のつかない「不運」が降りかかり始めた。
陽介はMr.リーという男の日本における「評判」を、地に堕とすことに全力を注いでいた。
金はあっても信用のない男。
その周りにはハイエナしか集まらない。
そのことをこの街を誰よりも知り尽くした陽介は熟知していたのだ。
彼は笑顔の裏に、冷徹な戦略を隠し、メディアという武器で敵の社会的な信用を、静かに、そして確実に殺しにかかっていた。
そして、この戦争の最前線。
エリカもまた、女王として堂々と戦っていた。
彼女は俺が用意した潤沢な資金を元手に大胆不敵な賭けに出た。
彼女は、新生「FLEUR」の新しい広告塔として、一人のモデルを起用したのだ。
それは、今世界で最も注目を浴び、そして最もスキャンダラスな超大物モデル。
Mr.リーが自社のブランドの新しい顔として、契約寸前までいっていた最高のカードだった。
エリカは、その契約交渉の場に自ら乗り込んでいった。
パリの最高級ホテルのスイートルーム。
そこで、彼女はモデルとその代理人たちを、たった一人で待ち構えていた。
Mr.リーの陣営が部屋を出たその直後を狙って。
彼女はMr.リーが提示した額の3倍の契約金を、その場で電子送金で目の前で見せたという。
それだけではない。
彼女はそのモデルにこう囁いた。
「あなたはただの広告塔じゃない。私と共に戦うパートナーよ。私たちが古い男たちの支配するこのファッションの世界をひっくり返してやるの。面白そうじゃない?」
「Mr.リーは、あなたを『商品』として欲しがっている。でも、私はあなたという『才能』が欲しいの。どちらがあなたの魂をより輝かせられるか。答えは分かりきっているはずよ」
そのあまりにカリスマ的な口説き文句に、モデルはその場で二つ返事で首を縦に振ったらしい。
エリカは、金の力と、そして彼女自身の魅力で、敵の最強の武器を土壇場で奪い取ってみせたのだ。
その日の夜。
俺はアマンの書斎で、三つの戦場から送られてくる戦果の報告を静かに聞いていた。
健司、陽介、エリカ。
俺の仲間たちは、俺の想像以上に強く、そして頼もしく成長していた。
俺は満足げに頷いた。
そして、スマホを取り出すと、あの黒い名刺に書かれていた一本の電話番号にメッセージを送った。
Mr.リー、本人への初めての直接的なメッセージだ。
『――俺の仲間たちが、あんたによろしく、と言っている。戦争は好きか?俺は大好きだぜ』
返信は、すぐには来なかった。
だが、俺には分かっていた。
画面の向こうで、あの化け物が心の底から楽しそうに笑っているのが。
俺たちの本当の戦争は、まだ始まったばかりなのだから。




