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金の暴力、心の値段

 陽介が放った「移籍金10億円」という言葉は、核爆弾だった。

 それは、六本木の夜の全ての常識と秩序を一瞬にして木っ端微塵に吹き飛ばした。

 PANDORAの豪華絢爛だった店内は、数秒後には欲望と混乱の坩堝へと変わった。


「じゅ、10億!?」


「嘘でしょ…?」


「ねえ、どうするの、私たち!」


 5億円という人生のゴールテープとも思える大金で引き抜かれてきたばかりのキャストたちが、目を血走らせてざわめき立っている。

 彼女たちを必死で引き留めようとする黒服たちの制止の声も、もはや熱狂の渦の中では意味のないノイズでしかなかった。


「契約違反になるぞ!」


「サトウの罠だ!落ち着け!」


 契約違反?

 罠?

 そんなものがなんだというのだ。

 目の前には、人生をあと5回はやり直せるほどの現金がぶら下がっている。

 彼女たちの瞳から、理性という名の薄っぺらいメッキが面白いように剥がれていった。


「関係ないわよ!」


 最初に動いたのは、派手なドレスを着た若いモデル上がりのキャストだった。

 彼女は客の膝の上から飛び降りると、履いていたハイヒールを片方脱ぎ捨てた。

 そして、裸足のまま獣のような雄叫びを上げてPANDORAの出口へと走り出した。

 その姿はもはや夜の世界の蝶ではない。

 金という餌に群がる飢えた獣そのものだった。


 その一人の行動がダムを決壊させた。

 一人、また一人と、キャストたちが、客を、同僚を、そして自分を縛り付けていたはずの契約書をいとも簡単に投げ捨てていく。


 高級な酒のグラスが倒れ床にぶちまけられる。

 男たちの怒号と女たちの甲高い悲鳴。

 店内はまさに地獄絵図だった。


 俺は、その光景をVIP席から静かに見下ろしていた。

 隣では健司が呆然と呟いている。


「…ひどい光景だな。まるで暴動だ」


「そうか?」


 俺はそう言ってグラスに残ったワインを一気に飲み干した。


「俺には資本主義の最も美しく、そして純粋な縮図に見えるがな」


 Mr.リーの右腕の男は、顔を真っ赤にしてわなわなと震えている。

 彼の完璧だったはずの計画。

 それが、俺のたった一言で木っ端微塵に破壊されていく。

 プライドも、自尊心も、全てが俺の金の暴力の前に蹂躙されていくのだ。


 そして、ミナ。

 彼女は、ただ一人呆然とその場に立ち尽くしていた。

 彼女は他の女の子たちのように走り出そうとはしない。

 プライドか。

 それともMr.リーへの義理か。


 いや、違う。

 その瞳の奥に宿っているのは恐怖だ。

 俺という男の底知れない狂気に対する本能的な恐怖。


 俺はそんな彼女にゆっくりと近づいた。

 そして、耳元で悪魔のように囁いた。


「どうした、ミナ。お前も行かなくていいのか?10億だぞ。お前が俺を裏切ってまで手に入れようとした金の何倍もの金だ。お前の人生の値段はたったの10億でいいのか?」


 俺の残酷な言葉にミナの肩がビクッと震えた。

 彼女は何も言えなかった。


 その時だった。

 VIPルームの奥から、一人の男が静かに姿を現した。

 年は俺と同じくらいか、少し下か。

 細身の仕立ての良いスーツを着こなし、その顔には穏やかな笑みさえ浮かべている。

 だが、その瞳だけが笑っていなかった。

 全てを見透かすような、深く、そして冷たい瞳。


 俺は直感で理解した。

 こいつが、Mr.リー。

 この戦争のもう一人の王だ。


 彼はフロアの地獄絵図などまるで意に介さないように、まっすぐ俺の元へと歩いてきた。

 そして流暢な日本語で言った。


「あなたがサトウさんですか。…お会いできて、光栄です」


「俺もだよ、Mr.リー」


 俺たちは初めて言葉を交わした。

 互いの背後では女たちの金切り声が響いているというのに。

 俺たちの周りだけ時間が止まったかのように静まり返っていた。


 彼は目の前の惨状を見渡した。

 そして、少しだけ楽しそうに言った。


「…見事な、ご挨拶ですね。私の完敗です。まさか、一夜にして私の城をもぬけの殻にされるとは。あなたの『金の暴力』は噂以上だ」


「気に入らなかったか?」


「いいえ」


 彼は首を横に振った。

 その瞳に初めて人間らしい闘争心の光が宿る。


「むしろ、安心しました。あなたという人間が噂通り、いや噂以上に面白い方だと分かって。これほど私の心を躍らせてくれた相手は久しぶりです」


 彼は俺に一枚の黒い名刺を差し出した。

 そこには名前と一本の電話番号だけが記されている。


「今夜はあなたの勝ちです。ですが、戦争はまだ始まったばかりですよ、サトウさん」


「今度は夜の店ではなく、もっと大きな盤上でお会いしましょう。楽しみにしています」


 彼はそれだけ言うと呆然と立ち尽くすミナや、部下たちには一瞥もくれず一人で静かに店を去っていった。

 嵐のような男。


 俺は彼が差し出した名刺を指で弾いた。

 面白い。

 面白すぎるじゃないか。

 ただの金持ちの道楽息子かと思っていたが、どうやら本物の化け物らしい。


 俺はこれから始まる本当の戦争の予感に心の底から震えていた。


 退屈な平和はもう終わった。

 最高のゲームが今始まったのだ。

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