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銀座の夜と冷戦の始まり

 Mr.リー。

 その今まで聞いたこともなかった名前に、俺は久しぶりに血が騒ぐのを感じていた。

 俺の帝国を脅かす新しい敵。

 そして、そのやり方はかつて俺が叩き潰した六本木の古いオーナーたちとは全く違う。

 狡猾で洗練されていて、そして金の匂いがしない。

 そこにあるのは、純粋な支配欲だけだ。


 面白い。

 最高のゲーム相手じゃないか。


 その日の夜。

 俺は陽介と健司を銀座のある場所に呼び出した。

 並木通りのとあるビルの最上階。

 看板もなく限られた人間しかその存在を知らない完全会員制のクラブ『月光』。


 俺はこの数年で、この店の筆頭株主の一人となっていた。

 ここはもはや俺にとって遊び場ではない。

 日本の政財界のインサイダー情報が、最も集まる情報戦のための最高の「司令室」だ。


 重厚な個室で、俺たちは健司がまとめたMr.リーに関する詳細な報告書に目を通していた。

 内容はあまりに希薄だった。


「…分かっているのは、これだけか」


 俺は短い報告書をテーブルに置いた。

 そこに書かれていたのは、Mr.リーがここ数年でシンガポールを拠点に彗星の如く現れたということ。

 その資産は数十兆円規模とも噂されているが、金の出どころは一切が謎に包まれているということだけだった。

 まるで、国家そのものが彼の背後にいるかのようだ。


「手強いな」


 健司が険しい顔で呟く。


「金の流れが読めない。普通の市場経済のルールで動いている男じゃないようだ。まるで幽霊と戦っているみたいだ」


「面白えじゃねえか!」


 陽介が不敵に笑う。


「つまり正体不明のラスボスってわけだろ?燃えてくるぜ!俺たちの出番だな拓也!」


 俺はそんな二人を見ながら、静かにウイスキーを口に運んだ。

 陽介の言う通りだ。

 退屈な平和はもう終わった。

 再び戦場に戻る時が来たのだ。


 その時、部屋の扉が静かにノックされた。

 入ってきたのは、この『月光』の女主人であるママだった。

 彼女は俺にだけ分かるようにそっと目配せをした。


「佐藤様。少しだけよろしいでしょうか」


「ああ、どうした」


「実は今宵、リー・ホールディングスの方が見えておりまして」


 ママの言葉に俺たち三人の間に緊張が走った。


「…ほう。本人が来ているのか?」


「いえ、Mr.リー本人ではございません。彼の右腕と噂される日本人の方が数名のお客様を接待なされているようです」


 ママは声を潜めて続けた。


「…彼らのやり方は少し普通ではございません。お目当てのキャストがいれば、その子の席についているお客様に黙って数倍の席料を払って無理やり引き抜いていく。この銀座の暗黙のルールをまるで無視するかのように…。まるで、かつての佐藤様のようですわ」


 ママはそう言って、悪戯っぽく微笑んだ。


「…なるほどな」


 俺は静かに頷いた。

 それは、かつて俺が六本木でやっていたことと同じだ。

 金の力で既存の秩序を破壊する。

 Mr.リーは俺と同じ種類の人間なのかもしれない。

 ならば話は早い。


「面白いものが見れそうだ。ママ、その連中のテーブルが見える席に案内してくれ」


 俺たちはフロアの隅にある少しだけ高い位置にある個室へと移動した。

 マジックミラー越しにフロア全体が見渡せる特別な部屋だ。


 ママが指差したテーブルには、数人のいかにもエリートといった風貌の男たちが店のトップキャストたちを侍らせてワインを飲んでいた。


 中心にいる男がMr.リーの右腕なのだろう。

 若いがその目には蛇のような冷たい光が宿っていた。

 彼らはまるで品定めでもするかのように、女の子たちの顔と体をいやらしい視線で撫で回している。


 しばらくその光景を眺めていると、店の入り口が少しだけ騒がしくなった。

 俺が個人的に支援しているエリカのブランド「FLEUR」と、競合関係にある別のブランドの社長が取り巻きを連れて入ってきたのだ。


 彼らはMr.リーの右腕の男のテーブルに近づくと、深々と頭を下げた。

 まるで、王に謁見する家臣のように。

 Mr.リーは、すでに日本のファッション業界の一部をその支配下に置き始めているのだ。


「…拓也」


 健司が悔しそうな顔で俺を見た。


「ああ、分かってる」


 俺は静かに立ち上がった。

 そして、部屋にいた黒服に指示を出す。


「あのリー・ホールディングスのテーブルにこの店で一番高いワインを俺からのプレゼントだと言って、届けてくれ。ロマネ・コンティの一番良いヴィンテージのやつだ」


「えっ!?」


「そして、伝言を伝えろ。

『ようこそ、我が戦場へ。歓迎しよう』と


 俺のあまりに不敵な宣戦布告。

 黒服は一瞬だけ戸惑った顔をしたが、すぐに深々と頭を下げた。


「…かしこまりました」


 俺はマジックミラーの向こうで、数千万円はするであろう伝説のワインが運ばれていくのを静かに見つめていた。

 ワインを受け取ったMr.リーの右腕が驚いたように、そして、すぐに挑戦的な笑みを浮かべてこちらを見た。

 もちろん俺の姿は彼には見えていない。


 だが、俺には分かった。

 奴もまた、俺の存在に気づいているのだと。


 俺たちの静かで、そして血を血で洗うような冷たい戦争。

 そのゴングは、今この銀座の夜に確かに鳴らされたのだ。

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