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黒船来航

本編第二部開始します。

 2044年、秋。

 俺が27歳であの6億円を手にしてから24年の歳月が流れていた。

 俺、佐藤拓也は51歳になっていた。


「佐藤財閥」は、今や日本経済を裏から動かす巨大な複合体コングロマリットとなっている。

 その総資産はもはや国家予算に匹敵し、俺個人の資産でさえフォーブスの長者番付ではアジアトップ10の常連であり、日本では向かうところ敵なしの存在だった。


 CEOとなった健司の石橋を叩いて渡るような堅実な経営手腕と、世界中を遊び場のように飛び回り巨大な商談を次々とまとめてくる陽介の天性のカリスマ性。


 かつての親友二人は、今や日本の、いや、世界の経済界で知らぬ者はいないほどの重鎮となっていた。

 だが、そんな帝国の喧騒も今の俺にはどこか遠い世界の出来事のように感じられた。


 俺自身は財閥の経営の第一線からは、十年以上前に退いている。

 現在の肩書きは財閥の終身名誉会長。

 そして、事実上の「世界一贅沢な専業主夫」だ。


 俺の生活の中心は、妻の楓と小学三年生になった一人娘のひかり。


 アマンレジデンスのペントハウスで、愛する家族と過ごす穏やかな毎日。

 それこそが俺が長い戦いの果てにようやく手に入れた本当の宝物だった。


 その日の昼下がりも、俺は神保町のあの小さなカフェのカウンターに座っていた。

 10年前と何も変わらない穏やかな場所。


 楓は40代半ばになっても出会った頃と変わらず、穏やかで美しい笑顔をしていた。

 彼女は財閥トップの妻でありながら、今もこの小さな自分の城を何よりも大切にしている。


「パパ、見て見て!テストで100点取ったよ!」


 学校を終えたひかりが、ランドセルを揺らしながら店に駆け込んできた。

 楓と、そして俺の面影を半分ずつ受け継いだ俺たちの娘だ。


 この完璧な平和。

 そんな平和な日常が、永遠に続くのだと誰もが信じていた。


 ♢


 その日の午後も財閥の会長としてではなく、一人の父親として頭を悩ませていた。

 ひかりの、海外留学についてだ。


 娘の類稀なる才能を、日本の窮屈な教育システムに閉じ込めておくべきではない。

 しかし、愛娘を遠い異国の地へ送り出すことへの父親としての寂しさ。

 数兆円の資産を動かすよりも、はるかに難しい問題だった。


 その時、俺のプライベート回線に一本の電話が入った。

 ディスプレイに表示された名前に、俺は少しだけ眉を上げた。

 相手は、今やアカデミー賞を何度も受賞し、ハリウッドにその名を刻んだ大女優、美月だった。


『拓也さん、お久しぶりです。…今、少しだけお時間をいただけますでしょうか』


 電話の向こうの彼女の声は、スターとしての自信に満ち溢れていながらも、どこか昔を思い出させるような切羽詰まった響きがあった。


 ♢


 アマンの書斎で、俺は美月と向き合っていた。

 数年ぶりに会う彼女は、もはや俺が育てたシンデレラではない。

 自分自身の力で、世界の頂点に君臨する本物の女王だった。


「単刀直入に言います。私が長年企画してきたハリウッドの新作映画があります。その制作が難航していて...」


 話を聞けば、メインの出資者の一人が契約直前の段階で、突然資金を引き上げたのだという。

 理由も告げずに一方的に。

 このままでは数年間かけて準備してきたプロジェクトそのものが頓挫してしまう、と。

 彼女は、その瞳に悔し涙を浮かべていた。


「…それで、俺にその穴を埋めてほしい、と。そういうことか?」


「はい。最高のリターンをお約束します」


 俺は彼女が持ってきた企画書にゆっくりと目を通した。

 監督も、共演者も、脚本も、全てが世界トップクラス。

 これが、こけるはずがない。

 では、なぜ?


 俺は、その場で財閥の投資部門から彼女が要求する数百億円の出資を約束した。


「ありがとう、拓也さん…!」


「気にするな。かつて俺が育てた最高の女優への、そして今もなお戦い続ける一人の戦友への、ささやかな餞別だ」


 俺は、笑顔で美月を送り出した。

 彼女が安堵の表情で書斎を出ていく。

 そのドアが静かに閉まった瞬間、俺の顔から笑みは消えた。


 おかしい。

 何かが、おかしい。


 このプロジェクトは金のなる木だ。

 プロの投資ファンドが契約直前に理由もなくこの金のなる木から手を引くなどありえない。

 金の流れが不自然すぎる。


 考えられる可能性は二つ。

 一つは俺が知らない、このプロジェクトの致命的な欠陥が存在する。


 もう一つは…。

 これはビジネス上の判断ではない。

 誰かが意図的にこのプロジェクトを潰そうとしている。


 そして、その本当のターゲットは美月ではない。

 美月はかつて俺が育てた女だ。

 その彼女を見せしめのように潰すこと。

 それは、この俺に対する明確な「挑戦状」だ。


 俺は、すぐに健司に極秘の通信を入れた。


「健司。今すぐ美月が持ってきた映画のプロジェクトについて徹底的に洗え。特に今回手を引いた投資家。そいつの正体を、金の流れを、金の目的を、だ。どうやら俺の知らないところで俺の庭を荒らそうとしている不届き者がいるらしい」


 ♢


 数日後。

 健司から緊急の通信が入った。

 その報告書に書かれていた名前に、俺は初めて聞く、しかしこの先の俺の人生を大きく揺るがすことになる男の名前を見つけた。


『――本プロジェクトから離脱した投資家の名は、リー・ホールディングス。代表は、シンガポールを拠点とする若き大富豪、Mr.リー』

『備考:リー・ホールディングスは、ここ数ヶ月で、六本木・銀座地区の複数の飲食店やファッションブランドの買収を水面下で進めている模様です。その手法は極めて攻撃的である、との報告が…』


 俺はまだ知らなかった。

 

 Mr.リーという男の名前が、これから俺の、そして、俺の愛する家族の穏やかな日常を破壊し尽くす黒船の名前になるということを。


 王様の長すぎた平和な休日。

 その終わりを告げる、静かな、しかし、確かな足音がもうすぐそこまで迫っていた。

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