熱狂の始まり
2021年の春。
俺が会社を辞めてから、半年以上が過ぎていた。
月額350万円の家賃にも、一食数万円の食事にも、毎晩のように浴びる高級シャンパンにも、俺はすっかり慣れてしまった。
人間というのは、恐ろしいほど順応性の高い生き物らしい。
あれほど焦がれた非日常は、いつの間にか俺の日常になっていた。
友人たちも、最初は遠慮していた俺の家に、今では我が物顔で入り浸っている。
「拓也ー、なんか美味い酒残ってねえの?」
「お、拓也。この前のキャバクラの子、俺に紹介してくれよ」
陽介と健司は、すっかり俺の金に毒されていた。
だが、それでいい。
遠慮されるよりも、ずっと気分が良かった。
ミナとの関係も、順調だった。
店での関係は続いているが、店の外で会う時間の方がずっと増えていた。
彼女はもう、俺の前では営業スマイルを見せない。
ただ、心を許した相手に見せる、自然で、少しだけ隙のある笑顔を向けてくれる。
俺はその笑顔を、数百万のシャンパンよりも価値があると感じていた。
1億円あった遊び金は、派手な生活のせいで、残り2000万円を切っていた。
普通の人間なら恐怖で震え上がるところだろう。
だが、俺の心は驚くほど穏やかだった。
なぜなら、俺の本当の戦場は、六本木の夜の街ではないからだ。
その日も、俺はタワマンのスカイラウンジで、ぼんやりと経済ニュースを眺めていた。
コロナ禍で世界中の中央銀行が、かつてない規模の金融緩和を行っている。
市場に溢れた金が、行き場を探してあらゆる資産に流れ込んでいた。
株、不動産、そして…。
「…来たか」
俺はスマホを取り出し、仮想通貨の取引アプリを開いた。
赤い数字と青い数字が、激しく点滅している。
数ヶ月間、ほとんど動きのなかった市場が、明らかに熱を帯び始めていた。
俺が5億円分買ったコインたち。
その中でも、特に期待していた銘柄のひとつ、Solanaの価格が、ここ数日で数倍に跳ね上がっている。
他の犬系コインたちも、まるで狼煙を上げるかのように一斉に上昇を始めていた。
俺の総資産額を示す数字が、5億円から、10億、20億へと、日を追うごとに膨れ上がっていく。
「拓也さん、何見てるんですか?」
ラウンジに、ミナがやってきた。
今日は店が休みで、昼から俺の家で過ごしていたのだ。
「ちょっとな。面白いゲームだよ」
俺はそう言って、スマホの画面を隠した。
まだだ。
まだ、誰にも知られるわけにはいかない。
俺ですらこの先に何が待っているのか想像もできていないのだから。
ミナは、不思議そうな顔をしながらもそれ以上は何も聞いてこなかった。
彼女は、俺の隣にそっと座ると眼下に広がる東京の景色に目を細めた。
「綺麗ですね」
「ああ」
俺は、ミナの横顔を見つめながら、これから始まるであろう熱狂の渦に思いを馳せていた。
この穏やかな日常がもうすぐ終わる。
そして、誰も見たことのない新しい世界が始まるのだと。
その日から、俺の日常の裏側でもう一つの現実が暴走を始めた。
友人たちとバカ騒ぎをしている間も、ミナと高級レストランで食事をしている間も、俺の資産は俺の意思とは無関係に凄まじい勢いで増殖していった。
資産50億円を突破した日。
俺は、初めて「恐怖」に近い感情を覚えた。
数字が大きすぎて、実感が全く湧かない。
ただ、画面の中の数字だけが、現実離れした勢いで膨張していく。
資産100億円を突破した日。
俺は、陽介と健司を連れて、いつものように六本木のキャバクラにいた。
彼らが楽しそうに騒ぐのを横目に、俺は一人、テーブルの下でスマホを握りしめていた。
この瞬間に、俺のスマホの中で、数千万円、数億円という金が生まれている。
目の前の豪華な酒や食事が、色褪せて見えた。
もはや、周りの人間との金銭感覚のズレが、致命的なレベルにまで開いてしまったことを俺は悟っていた。
そして、2021年の秋。
運命の日がやってくる。
その日、市場は歴史的な熱狂の頂点にあった。
SHIBA INUを筆頭とした犬系コインが、信じられないような高騰を見せる。
俺の資産は、200億、300億、500億…と、もはや意味のわからないスピードで増えていった。
俺は、タワマンの自室に一人で閉じこもり、ただひたすら画面の数字が狂っていくのを眺めていた。
リビングは静まり返っている。
今日は、陽介たちも、ミナも呼んでいない。
この歴史的な瞬間は、誰にも邪魔されず一人で見届けるべきだと思ったからだ。
窓の外では、東京の夜景がいつもと同じように輝いている。
だが、俺にはもうそれが昨日までと同じ景色には見えなかった。
まるで、作り物のミニチュアか何かのように現実感がなかった。
その時だった。
俺の総資産を示す数字が、ついに100,000,000,000円を超えた。
ゼロが、11個。
1000億円。
俺は、声も出せずにただその数字を見つめていた。
もはや、恐怖も、興奮もなかった。
そこにあったのは絶対的な静寂と自分が人間ではない何か別のものに変貌してしまったかのような、不思議な感覚だけだった。
俺はこの瞬間に億り人としての自分と決別した。
金に興奮し、金に喜び、金の力に酔いしれていた、あの頃の俺はもういない。
俺は静かにスマホを閉じると、クローゼットから一番良いスーツを取り出した。
そして、馴染みの黒服に一言だけメッセージを送る。
『今から行く。いつもの店、一番良い席を用意しておいてくれ』
今夜、六本木で、新しい俺が生まれる。




