偽りの家族
ミナのアナザーストーリー3話目です
2022年、秋。
私と拓也さんの偽りの結婚生活が始まった。
私たちはパークコート・六本木ヒルトップから、彼が購入したアマンレジデンスのペントハウスへと居を移した。
天空の城。
それは、下界の全てを見下ろす神様が住む場所だった。
拓也さんは理想の夫だった。
優しくて、誠実で、私の望むものは私が口にする前に全て与えてくれた。
世界中の美しい景色、宝石、ドレス。
彼はまるで壊れ物を扱うかのように私を大切にしてくれた。
そのあまりに純粋な愛情が、私の心を日々少しずつ蝕んでいく。
私は完璧な妻を演じた。
朝は彼のために最高の朝食を用意し、夜は疲れて帰ってきた彼を最高の笑顔で迎える。
陽介さんや健司さんが遊びに来れば、彼らが心から楽しめるようかいがいしく世話を焼いた。
誰もが私たちを世界で一番幸せな夫婦だと思っていた。
拓也さん自身もそう信じきっているようだった。
だが、その裏側で私の二重生活はまだ続いていた。
カイトとの逢瀬。
月に一度だけ拓也さんが海外出張で家を空ける日。
私は昔のように下北沢のあの小さなアパートのドアを叩いていた。
だが、カイトとの時間も、もう昔のように安らげるものではなくなっていた。
拓也さんの金でスターになった彼は別人のように傲慢になっていた。
彼が私に求めるのは愛ではなくさらなる金。
そして、私を通して見える拓也さんへの醜い嫉妬心だけだった。
「なあ、ミナ。サトウは最近どうなんだよ」
「拓也さんはいつも優しいよ」
「ちっ。気に食わねえ野郎だぜ。宝くじが当たっただけのただの成金がよ」
そう言って、彼は私が拓也さんからプレゼントされた、数千万円のバーキンのバッグを無造作に床に放り投げた。
その瞬間、私の心の中で何かがぷつりと切れた音がした。
そんな歪な関係を続けていた、ある日のこと。
私は自分の体の異変に気づいた。
妊娠していた。
血の気が引いた。
お腹の子の父親は、誰なのか。
拓也さんか。
それとも、カイトか。
いや、タイミングを考えれば答えはほぼ分かっていた。
カイトの子だ。
私は絶望の淵に立たされた。
どうしよう。
どうすればいい。
拓也さんに知られたら全てが終わる。
私はこの天国から地獄の底へと叩き落とされるだろう。
中絶手術のことが頭をよぎった。
だが、それはできなかった。
この子は何も悪くない。
全ての罪は私にあるのだから。
私は決めた。
この子を産もう、と。
そして、拓也さんの子として、育てよう、と。
これは、私が一生をかけて背負うべき最大にして最後の罪だ。
神様への究極の裏切り。
翌日、私は拓也さんに妊娠したことを告げた。
もちろん、父親が誰か、などという疑いの余地もない顔で。
「…本当か、ミナ」
彼は震える声でそう言った。
そして、次の瞬間、私を壊れるくらい、強く、強く、抱きしめた。
彼の肩がわずかに震えているのが私にも分かった。
彼は泣いていた。
心の底から喜んで泣いているのだ。
「ありがとう、ミナ…!ありがとう…!」
そのあまりに純粋な喜びを前にして、私の心は完全に壊れた。
私は悪魔だ。
この誰よりも優しい神様を、奈落の底へと引きずり込む最悪の悪魔なのだ。
私は彼の胸の中で、声も出さずに、ただ涙を流し続けた。
その涙の意味を、彼が知ることは永遠にない。
そう願っていた。
十ヶ月後。
私は元気な男の子を出産した。
拓也さんは、その子を「希望」と名付け、まるで自分の命よりも大切な宝物のようにその小さな体を、抱きしめた。
その幸せに満ちた光景を、私は地獄の底から見上げるような気持ちで、ただ、静かに見つめていた。
私たちの偽りの家族の物語が、今、始まってしまったのだから。




