軍資金五億円の使い道
翌朝、俺が目を覚ましたのは、聞き慣れない鳥のさえずりと、窓から差し込む柔らかい光の中だった。
そこは、いつもの壁の薄い1Kアパートではない。
昨日まで泊まっていた、最高級ホテルのスイートルームのベッドの上だ。
「……そっか。もう、あそこには帰らなくていいんだ」
天井を見上げながら、ぽつりと呟く。
体中に広がる、圧倒的な解放感。
もう、満員電車に揺られることも、理不尽な上司に頭を下げることもない。
アラームを気にせず、好きなだけ眠っていられる。
これが自由か。
6億円がもたらした、完璧な自由。
俺はベッドから起き上がると、ルームサービスで豪華な和朝食を頼んだ。
焼き魚に、出汁巻卵、炊き立てのご飯。
今まで食べてきたどんな朝食より、これが一番美味いと感じた。
食事を終え、俺はスマホで不動産サイトを開いた。
ホテル暮らしも快適だが、やはり自分の城が欲しい。
もう、家賃や広さを気にする必要はどこにもない。
エリアは、もちろん六本木。
俺の新しい人生の舞台だ。
家賃の上限設定を「上限なし」にして検索すると、画面には信じられないような物件がずらりと並んだ。
家賃100万円、200万円は当たり前。
中には、月々500万円を超えるような、異次元の部屋まである。
「ははっ、すげえな」
笑いが込み上げてくる。
数日前まで、数千円の家賃更新料ですら悩んでいた自分が馬鹿みたいだ。
俺はその中から、一番新しくて、一番セキュリティがしっかりしていそうなタワーマンションをいくつかピックアップした。
すぐに、サイトに載っていた不動産屋に電話をかける。
「もしもし、物件の内見をお願いしたいのですが」
電話口の若い男は、最初は少し面倒くさそうな声だった。
だが、俺が内見したい物件の名前を告げた瞬間、その声色が一変する。
『お客様!かしこまりました!すぐに手配いたします!』
声が、ひっくり返っていた。
金は本当にあらゆるものを変える。
午後、予約した不動産屋に行くと、支店長らしき初老の男が出迎えてくれた。
最高級の茶菓子と共に出てきたのは、俺がネットで見た物件よりもさらに上のランクの部屋の資料ばかりだった。
「お客様のような方にこそ、ふさわしいお部屋がございまして」
彼らはもう俺がただの冷やかしではないことを理解している。
俺が持つ金が、彼らをそうさせていた。
「じゃあ、全部見せてもらおうかな」
俺は、まるでカタログから服を選ぶみたいに軽く言った。
結局、その日に俺は新しい住居を決めた。
六本木にそびえ立つ、44階建てのタワーマンション。パークコート・六本木ヒルトップ。
その最上階にある、角部屋のペントハウスだった。
広さは200平米を超え、リビングの窓からは東京タワーと都心の夜景が一望できる。
コンシェルジュサービス、フィットネスジム、スカイラウンジ、その全てが俺の日常になる。
家賃は、月額350万円。
前の家の、ちょうど50倍だ。
契約も、驚くほどスムーズに進んだ。
保証人や勤務先を尋ねられたが、俺が「前払いで数年分、払いますよ」と言った瞬間、全ての質問が意味をなさなくなった。
不動産屋の支店長は、見たこともないような深々としたお辞儀で俺を見送った。
数日後、俺は最低限の荷物だけを段ボールに詰め、古いアパートを後にした。
引っ越し作業も、全て業者に丸投げだ。
俺がやることは、新居のソファに座って作業が終わるのを待つことだけ。
その日の夜。
俺は、陽介と健司、そしてミナを新居に招いていた。
「……ここ、本当に拓也の家か?」
陽介が、リビングの窓に張り付いて絶句している。
「ホテルじゃん…。ていうか、ホテルよりすげえ…」
健司も、落ち着かない様子できょろきょろしていた。
「拓也さん、すごすぎます…」
ミナは、ただただ感嘆の息を漏らしている。
彼女との関係は、あの日以来、続いていた。
店に顔を出せば、彼女は必ず俺の隣に座ってくれる。
同伴やアフターにも、喜んで付き合ってくれた。
まだ、客と店員という関係を超えてはいない。
だが、その距離が少しずつ縮まっているのを俺は感じていた。
俺たちは、デリバリーで頼んだ最高級の寿司とシャンパンで改めて乾杯した。
「これが、俺の新しい日常だ。お前ら、いつでも遊びに来いよ」
その日から、俺の生活は一変した。
昼過ぎに起き、ジムで汗を流し、友人たちと美味いものを食べ夜は六本木に繰り出す。
健司の借金はもうない。
陽介は、俺のおかげで知り合った女の子と良い感じらしい。
ミナの店での売り上げは、俺がいるだけで常にトップクラスだ。
1億円あった「遊び金」は、数ヶ月でみるみる減っていった。
だが、俺は全く気にならなかった。
億り人としての新しい日常が始まって、約一ヶ月が過ぎた。
友人たちとのバカ騒ぎや、ミナとの時間も、もちろん最高だ。
だが、俺の心の大部分を占めていたのは、別のことだった。
軍資金、5億円。
この金の使い道こそが、俺の人生の第二章を決定づける。
その日、俺はラウンジのソファに深く腰掛け、一人で思考に耽っていた。
2017年の仮想通貨バブル。
俺は、なけなしの金でその熱狂に参加し、そして大火傷を負った。
多くの人間が市場から去ったが、俺は違った。
なぜ負けたのか。
勝つためには何が必要だったのか。
来る日も来る日も、チャートとホワイトペーパー(事業計画書)を読み漁った。
そして、一つの結論に達していた。
2017年の主役が「技術」への期待感だったとすれば、次に来るバブルの主役は「物語」と「熱狂」だ、と。
コロナ禍で、世界中の政府が未曾有の金融緩和を行っている。
市場にじゃぶじゃぶに溢れた金は必ずどこかへ向かう。
その時、人々が求めるのは小難しい技術論じゃない。
もっと単純で、もっと面白い夢のある「物語」だ。
俺は、5億円のポートフォリオを三つに分けることに決めた。
一つは、未来のインフラへの投資。
俺が目を付けたのは、Solanaという新しいブロックチェーンだった。
当時の仮想通貨界の王、イーサリアムが抱える処理速度の遅さや手数料の高騰といった問題を全て解決しうる圧倒的な技術力。
そして何より、世界最大手の取引所FTXとその創業者SBFが、全面的にバックアップしているという「物語」。
これは、次の時代の覇権を握る可能性がある。
俺は、3億円をSOLに投じることに決めた。
二つ目は、熱狂への投資。
これが、俺の戦略の核だった。
俺は2020年の夏、ある奇妙な現象を目撃していた。
本来、何の価値もない「ジョークコイン」であったはずのDogecoinが、TikTokの若者たちの間で流行り一時的に価格が高騰したのだ。
馬鹿げている、と誰もが笑った。
だが、俺はそこに次なるバブルのヒントを見た。
「価値がなくても、人が信じれば熱狂が生まれる。熱狂こそが価値になる」
その時、俺はDogecoinのフォロワーとして生まれた、SHIBA INUという、まだ無名のコインの存在を知った。
「ドージコインキラー」を名乗り、独自の経済圏を作ろうと計画しているそのコインはまさに熱狂の種そのものに見えた。
これはギャンブルだ。
だが、当たればデカい。
俺は、1.5億円をSHIBに投じる。
三つ目は、その熱狂のダメ押し。
残りの5000万円は、AKITA(秋田犬)など、当時生まれ始めていた他の犬系ミームコイン数種類に宝くじを買う感覚でばら撒く。
これが、俺の5億円の使い道。
技術と物語、そして純粋な熱狂。
この三つの歯車が噛み合った時、何が起きるのか。
俺はスマホを操作し、2020年の秋、数日かけて、計画通りに5億円分のコインを買い集めた。
全ての買い注文を終えた時、俺の銀行口座の残高は、5000万円を切っていた。
もしこれが失敗すれば、俺はただの「宝くじを無駄遣いした男」として終わる。
だが、不思議と恐怖はなかった。
あるのは、これから始まる祭りを待つ、静かな高揚感だけだった。




