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ゼロの価値

ミナのサイドストーリー最終話です

あの夜、カイトに捨てられてから私がどこでどうやって過ごしていたのかあまりよく覚えていない。

雨の中を何時間も当てもなく歩き続けた。

気づけば朝日が昇っていた。

汚れた服、腫れ上がった頬。

ショーウィンドウに映る自分の姿はまるでゴミみたいだった。


六本木にはもういられない。

拓也からもカイトからも捨てられた私に居場所などどこにもなかった。


私はなけなしの金で夜行バスに乗り込んだ。


行き先はどこでもよかった。

ただ、この街から消えてしまいたかった。


バスが着いたのは知らない北国の小さな港町だった。

潮の香りと錆びれた漁船。

灰色の空。

私の心の中みたいに色褪せた世界だった。


私はその町の古い安宿に身を寄せた。

昼間はただぼんやりと海を眺めて過ごす。

夜は悪夢にうなされて何度も目を覚ました。

拓也のあの冷たい目。

カイトのあの軽蔑した声。

それが何度も何度も私を責め立てる。


お金が尽きた。

一日何も食べられない日もあった。

プライドも見栄も、もうどうでもよくなった。

私は町の小さな食堂で住み込みで働かせてもらうことにした。


仕事はきつかった。

朝は早くから仕込みを手伝い、昼は漁師たちの威勢のいい注文を捌く。

夜は酔っ払いの相手をしながら皿を洗い続ける。

爪はボロボロになり自慢だった肌もすっかり荒れてしまった。


店の老婆は口は悪いが根は優しい人だった。

身元も明かさない訳ありの私を何も聞かずにただ黙って働かせてくれた。


「あんた、本当に何もできねえんだな」


そう言ってため息をつきながらも、夜になるといつも温かい賄い飯を食べさせてくれた。

その飾り気のないただの焼き魚定食が今まで食べたどんな高級フレンチよりも美味しかった。

涙がご飯の上にぽたぽたと落ちた。

しょっぱい味がした。



そんな生活が一年ほど続いたある日のこと。

店の古びたテレビに見覚えのある顔が映し出された。


『――日本のスポーツ界に、新たなスター経営者の誕生です!

謎の資産家サトウ氏が個人で買収したJ2クラブが、創設以来、初のJ1優勝を達成しました!』


画面の中には満員のスタジアムで選手たちに胴上げされる、陽介さんと健司さんの姿があった。

そして、VIPルームのガラスの向こうからその光景を静かに穏やかな顔で見つめている拓也がいた。

彼の隣には誰もいない。

ただ一人、王として自らが作り上げた熱狂を満足げに眺めているようだった。


私は息を呑んだ。

彼は私が知っていた、あの孤独な王様ではなかった。

彼の顔には虚しさや退屈の色など微塵もなく、新しいゲームを心から楽しむ子供のような純粋な喜びに満ちていた。

彼は私がいなくても、いや、私のような偽りの存在がいないからこそ本当の充実を手に入れたのだ。


その瞬間、私は全てを理解した。

ああ、そうか。

私は最初から何も分かっていなかったんだ。


私が彼に与えていたのは偽りの愛と刹那的な興奮だけ。

でも、彼はそんなものをとうに卒業し、仲間たちと共に本気で夢を追いかけるという新しいステージに進んでいたのだ。


私は負けたのだ。

女としても人間としても完膚なきまでに。


その夜、私は店の老婆に初めて自分の過去を話した。

六本木でNo.1だったこと。

大金持ちの男に捨てられたこと。

そして、その金で別の男にも裏切られたこと。


全てを聞き終えた老婆は、ただ一言、こう言った。


「…そうかい。大変だったな、あんたも」


そして、いつものように温かいお茶を淹れてくれた。


「金なんてな、あってもなくても地獄だよ。大事なのは金じゃねえ。お前さん自身がこれからどう生きたいか、だ」


その言葉が私の心にすとんと落ちた。

私はずっと誰かに値段をつけられる人生を歩んできた。

でも、もうそんな人生は終わりだ。


私の価値は私が決める。

ゼロになったこの場所から。

もう一度、私は私だけの人生を歩き始めよう。


翌日、私は老婆に深々と頭を下げその町を後にした。

向かう先は決まっている。

私のたった一人の家族がいる、あの故郷へ。


弟のユウタに会いたかった。

金で命を救うのではなく、ただの姉として、その手をもう一度握りしめてやりたかった。

私の本当の人生を取り戻すための、長い、長い旅がようやく始まろうとしていた。

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