私のいる場所
楓のサイドストーリー最終話です
伊豆で拓也さんが全てを打ち明けてくれたあの夜から、私たちの関係は本当の意味で始まった。
彼はもう私の前で寂しそうな目をすることはなくなった。
時折見せていた遠い世界の影もすっかり消え去っていた。
東京に帰る日。
旅館の女将さんや従業員の方々が私たちを深々と見送ってくれた。
女将さんが私の手をそっと握り、「殿様を、よろしくお願いいたします」と、優しく微笑んだ。
私はただ顔を赤くしながら頷くことしかできなかった。
彼が住むというアマンレジデンスのペントハウス。
それは私が今まで生きてきた世界とはあまりにもかけ離れた天空の城だった。
でも、不思議と怖くはなかった。
この城の主が本当は誰よりも不器用で、優しい、ただの男の人だと私はもう知っていたから。
リビングの中央で、彼は私の前に静かに片膝をついた。
そして、小さなベルベットの箱を開けて、私に震える声で言った。
「俺と、結婚してください」
その瞬間、私の目から涙が溢れて止まらなくなった。
嬉し涙、というだけではない。
彼がどれほどの覚悟でこの言葉を口にしてくれたのか。
彼がどれほどの孤独の中から私の手を取ろうとしてくれているのか。
その全てが伝わってきて、愛おしさで胸が張り裂けそうになったのだ。
「…はい。喜んで」
私は涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、何度も、何度も、頷いた。
彼が私の左手の薬指にはめてくれた指輪は太陽のように温かく輝いていた。
私たちの結婚式は、伊豆のあの旅館でささやかに行った。
陽介さんと健司さんが自分のことのように泣いて喜んでくれた。
私の両親も最初は拓也さんの資産に腰を抜かしていたが、すぐに彼の誠実な人柄を理解し温かく私たちを祝福してくれた。
結婚してからの毎日は穏やかで幸せだった。
私は自分の店である『楓書店』を、今も大切に営んでいる。
拓也さんもそれを喜んでくれた。
「そこが俺たちが始まった場所だからな」と言って。
時々、彼は、私を彼の世界へと連れて行ってくれる。
彼がオーナーとなった、「Club Z」へ。
きらびやかな世界の中心で彼はかつてのように「王」として振る舞う。
でも、その隣にはいつも私がいた。
女の子たちは私に嫉妬とそして憧れの入り混じった複雑な視線を向けていた。
でも、私はもう何も怖くなかった。
彼の孤独を埋められるのが世界でただ一人、私だけだと知っていたから。
そして、2034年。
彼が長年、予測していた未来が現実となった。
彼の資産はもはや国家予算に匹敵する天文学的なものになった。
その日、彼は、私に新しい夢を語ってくれた。
「佐藤ホールディングス」という、未来を創るための壮大な船出の話を。
私は、ただ彼の隣でその話を聞いていた。
彼がこれから創り上げていく新しい世界。
その全てを一番近くで見届けていきたい。
数年後。
私たちの間には小さな命が生まれていた。
娘は、彼の瞳と私の笑顔を受け継いでいた。
♢
ある日の昼下がり。
私はいつものようにカフェのカウンターでコーヒーを淹れていた。
カウンターの隅の席では、拓也さんが娘を膝に乗せて優しい顔で絵本を読んでいる。
カラン、とドアベルが鳴り、常連客の穏やかな声が響く。
何の変哲もない、いつもの日常。
でも、これこそが、私が、そして彼がずっと探し求めていたたった一つの宝物なのだ。
私は、夫と娘のために、世界で一番心を込めたコーヒーをカップに注いだ。
窓から差し込む光が私たちのささやかな王国を、優しく照らしていた。




