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二つの世界

楓のサイドストーリー3話目です

拓也さんと恋人同士になってから、私の日常は色鮮やかに輝き始めた。

カフェの営業が終わると、彼は高級車の後部座席からさりげなく私に手を振る。

最初は驚いたけれど、彼が「仕事の関係で」と少しだけ寂しそうに笑うので、私はそれ以上、何も聞かないことにしていた。


私たちは都内のあらゆる場所でデートを重ねた。

彼が連れて行ってくれるレストランは、どこも私が今まで知らなかった夢のような場所ばかりだった。

でも、私が一番好きだったのはそんなきらびやかな場所ではない。

仕事の話を一切せず、ただの「拓也さん」として、私のカフェでコーヒーを飲んでいる彼の穏やかな横顔だった。


彼は私の知らない世界をたくさん持っている人だった。

時々、彼のスマホに見たこともないような外国人の名前や、会社のロゴが表示されることがあった。

その度に、彼は少しだけ気まずそうな顔をしてすぐにスマホを裏返す。


私は不安じゃなかったと言えば嘘になる。

彼が生きる世界と私の生きる世界。

その間にはあまりにも大きな隔たりがあるのではないか。

いつか、彼は私の手の届かない遠い場所へ行ってしまうのではないか。

そんな不安が夜になると時々胸を締め付けた。


でも、私は彼を信じていた。

彼のあの寂しそうな瞳の奥にある本当の優しさを私は知っていたから。


その日、私たちは箱根の現代アートの美術館に来ていた。

彼が私のために予約してくれた静かで美しい場所。

二人で作品を眺め、併設されたカフェで美しい庭園を見ながらお茶を飲む。

完璧な穏やかな時間だった。


その時だった。


「――あら?サトウ様ではございませんか」


凛とした美しい女性の声。

振り返ると、そこに立っていたのは黒い着物を着こなした息を呑むような美人だった。

彼女の後ろには、いかにも裕福そうな数人の紳士たちが控えている。

その場の空気が、一瞬で、華やかで、しかしどこか緊張したものに変わった。


「…どうも」


拓也さんが短く答える。

その声はいつも私の隣で聞く穏やかな声とは少しだけ違っていた。

低く、そして、有無を言わせない不思議な響きがあった。


女性は私のことを一瞥すると少しだけ意外そうな顔をした。

そして、すぐに完璧な笑顔を作ると拓也さんに向かって深々と頭を下げた。


「いつも、大変お世話になっております」


拓也さんは、私に「仕事の関係だ」と、小さく言った。

私はただ、黙って頷くことしかできなかった。

圧倒されていたのだ。

彼らの作り出すきらびやかで私が決して立ち入ることのできないその世界の空気に。


女性と紳士たちはすぐにその場を去っていった。

ママと呼ばれた女性が、去り際に私にだけほんの少しだけ意味ありげな微笑みを残していったのが、なぜかとても心に残った。


その日の帰り道。

私たちはあまり会話をしなかった。

拓也さんは何かを考えているようにずっと黙り込んでいる。

私は何を聞けばいいのか分からなかった。


「…すごい方なんですね、拓也さんのお仕事相手って」


私がそう言うと、彼は少しだけ悲しそうな顔で笑った。


「…楓には、関係のない世界だよ」


その言葉が私の胸にチクリと刺さった。

関係ないと彼は言った。

それは、私を気遣う優しさなのか。

それとも、私を自分の世界から遠ざけるための壁なのだろうか。


その夜、私は初めて眠れなかった。

拓也さんのことをもっと知りたい。

彼のあの寂しそうな瞳の理由を知りたい。

そして、彼の世界の本当の姿をこの目で見たい。


でも、それを知ってしまったら、今のこの穏やかな関係は壊れてしまうかもしれない。

その恐怖が私を臆病にさせていた。


私は決心した。

彼がいつか全てを話してくれる日まで、私はただ待とう、と。

彼が安心して帰ってこられるこの『楓書店』という場所を私が守り続けよう、と。


恋とはただ楽しいだけのものではない。

相手の全てを、その光も、影も、丸ごと受け入れる覚悟のことなのだと、私はこの時初めて知ったのかもしれない。


そして、その覚悟が試される日がもうすぐそこまで来ていることを、この時の私はまだ知る由もなかった。

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