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初めてのデート

楓のサイドストーリー2話目です

拓也さんとの初めてのデートの日。

私は朝から鏡の前で何度も服を着替え髪型を直していた。

ただの散歩なのに、まるではるか遠い国へ旅立つ前の準備のように心が浮き足立っていたのを覚えている。


待ち合わせ場所は上野の美術館の前。

少しだけ早足で向かうと、拓也さんはもう先に着いていて静かにパンフレットを眺めていた。

白いシャツにチノパン。

いつものカフェでの彼と何も変わらない。

そのことに私はどうしようもなく安心してしまった。


「拓也さん!ごめんなさい、お待たせしました!」


「いや、俺も今来たとこだよ、楓さん」


そう言って、彼は初めて私にはにかんだような笑顔を見せた。

その少年のような笑顔に私の心臓がまた大きく音を立てた。


二人でゆっくりと美術館の中を歩く。

展示されている印象派の絵画について、私は知っている限りの知識を夢中で話した。

拓也さんは私の拙い説明を一度も遮ることなく、真剣にそして楽しそうに聞いてくれた。

時々、「なるほどな」と、彼が呟く。

その相槌の一つ一つが、私にとってはどんな賛辞よりも嬉しかった。


彼が本当にアートに興味があったのかは分からない。

でも、彼は私が好きなものを同じように好きになろうと一生懸命努力してくれている。

その不器用な優しさが私の心に温かく染み渡っていった。


美術館を出た後、私たちは上野公園のベンチに座って自動販売機で買った130円のお茶を飲んだ。


「…楽しいですね」


私がそう言うと、拓也さんは少しだけ驚いたような顔をした。

そして遠い目をして呟いた。


「ああ。…そうだな。こんなに楽しいのはいつ以来だろうな…」


その横顔に、またいつもの寂しげな影が差したのを私は見逃さなかった。

この人は一体どんな時間を生きてきたのだろう。

私が知らない彼の世界が垣間見えた気がした。


公園を散歩し、私たちは下町の小さな定食屋で少し遅い昼食をとった。

アジフライ定食と生姜焼き定食。

二人で食べても2000円にも満たないささやかな食事。

でも、その味は今まで食べたどんなご馳走よりも特別に感じられた。


会計の時、私が財布を出そうとすると彼は「いいって」と言って、私の手をそっと制した。

そして店員に気づかれないように、スマートに支払いを済ませてくれる。

そんなごく当たり前のやり取りですら、今の私には新鮮で少しだけ誇らしかった。


デートの帰り道。

駅へと向かう夕暮れの道で私たちは並んで歩いていた。

触れ合うか、触れ合わないか、くらいの距離。

そのもどかしい沈黙が、私の心を甘く締め付ける。


「…拓也さんって、不思議な人ですよね」


私はずっと心の中にあった言葉を口にした。


「そうか?」


「はい。なんだか、すごく遠い世界に住んでいる人のような気がする時と、すぐ隣にいる普通の人みたいな気がする時があるから」


私のまっすぐな言葉。

拓也さんはドキリとしたように一瞬だけ足を止めた。

そして、何かを言いかけて、やめて、ただ寂しそうに笑った。


駅の改札の前で私たちは足を止めた。

今日の魔法のような時間がもうすぐ終わってしまう。


「今日は本当にありがとうございました。すごく楽しかったです」


私が深々と頭を下げると、彼は少しだけ照れたように言った。


「俺の方こそ。…また誘ってもいいか?」


「はい!喜んで」


私は今日一番の笑顔で頷いた。


彼と別れ、一人電車に乗り込む。

今日のデートで使ったお金は、全部で5000円にも満たないだろう。


だが、私が手に入れた幸福感はどんな高価な宝石よりも、ずっと、ずっと大きかった。

私は確信していた。

自分はこのミステリアスで、不器用で、そして、誰よりも優しい男に恋をしているのだと。


その恋の先にどんな未来が待っているのか。


この時の私には、まだ、知る由もなかった。

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