世界の変わり目
盛大なシャンパンコールが終わり、俺たちのテーブルにだけ特別な時間が流れているようだった。
店中の視線が、羨望と好奇の色を帯びて俺たちに突き刺さっている。
ほんの数時間前まで、満員電車で誰にも気に留められなかった俺が、今やこの空間の主役だった。
「拓也…。お前、マジですげえよ…」
陽介が、興奮で顔を赤くしながら俺の肩をバンバン叩いた。
「やりすぎだろ…」
健司はそう言いながらも、その口元は少し緩んでいる。
借金から解放された安堵と、非日常的な体験への高揚が彼の表情を和らげていた。
何より、一番の変化はミナだった。
彼女は俺の隣にぴったりと座り、甲斐甲斐しくシャンパンを注いでくれる。
その距離はさっきまでよりも明らかに近く営業スマイルではない、心からの笑顔がそこにはあった。
「拓也さん」
いつの間にか、呼び方が変わっている。
「すごいですね。私、こんなの初めて見ました」
「そうか?」
「はい。拓也さんみたいな方、初めてです」
彼女の瞳は、潤んでさえいるように見えた。
それは、大金を使う客への賞賛か。
それとも、ナンバーワンを争う彼女にとって強力な味方が現れたことへの期待か。
どちらにせよ、気分は悪くない。
いや、最高に気分が良かった。
金で買える注目、金で買える尊敬、金で買える特別扱い。
綺麗事なんかじゃなくこれが現実だ。
黒服が、ひっきりなしに俺たちのテーブルにやってくる。
灰皿は一本吸うごとに交換され、グラスの水滴は瞬時に拭き取られる。
店のNo.1だというミナとは違うタイプの派手な美女も挨拶に来た。
「すげえ…。俺、生まれて初めてこんなにチヤホヤされてる…」
陽介が、隣の席についた女の子に自慢げに話している。
「こいつ、俺のダチなんですよ。すごくないすか?」
女の子たちも、キラキラした目で相槌を打つ。
「すごーい!」
「陽介さんも、お友達でいらっしゃるんですねー!」
その全てが、俺の金が生み出している幻だとしても今はそれで良かった。
会計は、結局200万円近くになっていた。
俺は顔色一つ変えず、現金で支払いを済ませる。
店を出る時、店の女の子たちが全員、入り口に並んで深々と頭を下げていた。
「ありがとうございましたー!」
その光景はまるで王様を見送るかのようだった。
外に出ると六本木の湿った夜の空気が火照った体を冷ましてくれる。
「…夢みたいだ」
健司が、ぽつりと呟いた。
「夢じゃねえよ。これが、俺たちの現実になったんだ」
俺はそう言うと、次の店を探し始めた。
夜は、まだ始まったばかりだ。
「次、どこ行くんだよ。もう十分だろ…」
健司が少し気圧されたように言った。
「バーカ。祝勝会は朝までって言ったろ」
俺は陽介の肩を組むとタクシーを停めた。
「運転手さん、この辺で一番眺めの良いラウンジ知ってる?」
連れてこられたのは、高層ビルの最上階にある、会員制のバーラウンジだった。
分厚い扉を開けると、眼下に広がる東京の夜景に思わず息を呑む。
さっきまでのキャバクラの喧騒が嘘のような、静かで洗練された空間だ。
ここでも金の力は絶大だった。
会員じゃないと伝えても、数枚の諭吉が俺たちを最高の席へと案内してくれた。
俺たちは、そこで一杯数十万円もするウイスキーを飲みながら、昔話をした。
金がなかった学生時代のこと。
新人研修で一緒に怒られたこと。
陽介がくだらない理由で彼女にフラれたこと。
話している内容は、昔と何も変わらない。
ただ、目の前にある酒の値段と俺たちの立場だけが変わってしまった。
「…なあ、拓也」
健介が真剣な顔で俺を見た。
「本当に、ありがとうな。あの500万がなかったら、俺どうなってたか…」
「もういいって、その話は」
「いや、言わせてくれ。この恩は一生忘れねえから」
「恩なんて思うなよ。俺はただお前らと昔みたいに何も気にせずバカやりたかっただけだ」
そうだ、これが俺の望みだった。
金のせいで、友情に壁ができるなんて絶対に許せない。
むしろ、金の力で昔よりもっと強くもっとくだらないことで笑い合える関係を俺は作りたかったんだ。
深夜3時を回り、さすがに眠くなってきた陽介と健司をタクシーに乗せて帰らせる。
俺は、一人でミナに電話をかけていた。
「もしもし、俺だけど。もう店、終わった?」
『拓也さん!はい、ちょうど今…』
「腹減らないか?美味い寿司でも食いに行こうぜ」
電話の向こうで、ミナが息を呑む音が聞こえた。
いわゆる、アフターの誘いだ。
客と店員ではなく、男と女としての時間の始まり。
俺たちは、西麻布の隠れ家のような寿司屋で二人きりで向き合っていた。
「ごちそうさまでした」
店を出た後、ミナが深々と頭を下げた。
「今日の拓也さん、本当にかっこよかったです」
「そうか?」
「はい。お店の女の子、みんな噂してますよ。とんでもない人が来たって」
俺は、近くに停まっていたタクシーを停めた。
そして、ミナの分のドアを開けてやる。
「家、送るよ」
ミナは、一瞬だけ躊躇うような顔を見せた。
そして、何かを決心したように、静かに頷くと、タクシーに乗り込んだ。
その横顔は、店で見たどんな笑顔よりもずっと綺麗だった。




