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常連客の佐藤さん

楓のサイドストーリー1話目です

私の人生は穏やかだった。

神保町の裏通りにある、この小さな古書店カフェ『楓書店』が私の世界の全てだった。

祖父から受け継いだこの店で、古い紙の匂いとコーヒーの香りに包まれて過ごす毎日。

それが私にとっての何よりの幸せ。


彼が初めてこの店に現れたのは、よく晴れた秋の日の昼下がりだった。

カラン、とドアベルが鳴り、一人の男性が入ってくる。

学生や年配の常連客が多いこの店には少しだけ不釣り合いな不思議な雰囲気を持った人だった。


年は30代前半くらいだろうか。

服装はごく普通のシンプルなTシャツにチノパン。

なのにその佇まいには、そこらの若者とは全く違う奇妙な重厚感があった。

そして、何よりも印象的だったのは彼の瞳だった。

全てを見通しているようで、その実、何も見ていないような。

深い、深い湖の底のような、静かで少しだけ寂しそうな目をしていた。


彼は何も言わずに店内を一周すると、カウンターの一番隅の席に静かに腰を下ろした。


「…コーヒーを」


それが彼の最初の言葉だった。

私はその日のおすすめである、コロンビアのスプレモを丁寧に淹れてお出しした。

彼は「ありがとう」と小さく言うと、あとは窓の外を眺めたり、本棚から持ってきた古い小説をただ黙って読んでいた。


その日から、彼は毎日のように店に現れるようになった。

いつも同じ隅の席に座り、いつもブレンドコーヒーを一杯だけ注文する。

私たちは必要最低限の会話しか交わさない。

でも、不思議とその沈黙が心地よかった。

彼が店にいるだけでこの空間の空気がいつもより少しだけ澄んで感じられるのだ。


私は彼のことを「佐藤さん」と呼んでいた。

彼が初めて、自分の名前を名乗ってくれた時のことを今でも覚えている。



その日も、彼はいつもの席で静かに本を読んでいた。

彼が読んでいたのは、私が大好きな少しマイナーな作家の初期の短編集だった。


「…その本、お好きなんですか?」


私は勇気を出して話しかけてみた。

彼は少しだけ驚いたように顔を上げると、静かに頷いた。


「ああ。この作家の文章は無駄がなくて好きだ」


「分かります!特に、この『海の見える駅』という話、最高ですよね」


そこから、私たちは初めて仕事以外の話をした。

好きな作家のこと、好きな映画のこと。

彼は驚くほど博識だった。

私の拙い話にも真剣に、そして楽しそうに耳を傾けてくれた。


その帰り際、彼は初めて私に名前を告げた。


「俺は、佐藤拓也だ。…また、来ます」


「はい。お待ちしております、拓也さん」


私は自分の名が「楓」であることを伝えた。

その日から、私たちは「店主と客」から、少しだけ違う関係になった。


私はいつしか彼が店のドアを開けるのを毎日心待ちにするようになっていた。

彼が時折見せるあの寂しそうな瞳の理由を知りたい、と願うようになっていた。


そして出会ってから数ヶ月が過ぎたある日のこと。

彼はいつものようにコーヒーを飲み終えると、少しだけ緊張した面持ちで私に言った。


「もし、よかったら…。今度の休みの日、どこかに出かけませんか?」


私の心臓が、トクン、と大きく跳ねた。


それは私の穏やかだった世界に彼という名の美しい波紋が広がった最初の瞬間だった。

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