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王様の聖域

箱根での一件以来、俺の心は常に晴れない霧の中にいるようだった。

楓を愛している。

その気持ちに嘘はない。

だが、その愛はあまりにも多くの嘘の上に成り立っていた。


このままではいけない。

いつか全てを話さなければ。

そう思いながらも俺は真実を告げる勇気を持てずに時間だけを浪費していた。


そんなある日。

楓のカフェで彼女が少し疲れたような顔をしているのに俺は気づいた。


「どうしたんだ、楓さん。疲れてるみたいだけど」


俺がそう言うと、楓は困ったように微笑んだ。


「すみません…。少し、お店のことで悩みがあって」


話を聞けば、彼女が店を借りている建物のオーナーが変わり、近々大幅な家賃の値上げを要求されているのだという。

このままでは、彼女が愛するこの小さな店を続けていくことが難しいかもしれない、と。


その話を聞いた瞬間、俺の頭の中にはいつもの「王様」としての思考が浮かび上がってきた。

「ならば、そのビルごと俺が買ってやろうか」と。


だが、俺はその言葉を必死に飲み込んだ。

それでは何も解決しない。

それは彼女の誇りを傷つけ、俺たちの関係を金で汚すだけの行為だ。

今の彼女が求めているのは金銭的な援助ではない。

ただ心に寄り添ってくれる誰かの存在なのだろう。


「…そうか。大変だな」


俺はそれしか言えなかった。

自分の無力さが歯がゆかった。

世界中のほとんどのものを手に入れられるこの力が、たった一人の愛する女の小さな悩みの前では何の役にも立たないのだから。


「…楓さん」


俺は意を決して彼女を誘った。


「もし、よかったら…。今度の週末、少し遠くに行かないか?温泉でも入ってゆっくり休んだ方がいい」


俺の提案に楓は少しだけ驚いた顔をした。

そして、すぐに嬉しそうに頷いた。


「…はい。ありがとうございます、拓也さん」


その週末。

俺は楓を連れて伊豆に来ていた。

もちろん俺が所有するあの旅館だ。


俺は事前に女将に一本だけ電話を入れておいた。


「女将。今度の週末、大切な人と二人だけでそっちに行く」

『まあ!お待ちしておりました、佐藤様!』

「一つだけ、頼みがある。俺のことはオーナーではなく、ただの『佐藤』として扱ってくれ。彼女には、俺が誰なのかまだ話していないんだ」

『…かしこまりました。全て心得ております』


旅館に着くと、女将は俺の言いつけ通り完璧な演技で俺たちを「ただのお客様」として丁重に迎えてくれた。

陽介や健司ももちろんいない。

この広大な旅館にいるのは、俺と楓、そして事情を理解している数人の従業員だけだ。


俺たちは最高の温泉に浸かり最高の料理に舌鼓を打った。

楓は最初は少し緊張していたが、女将や従業員たちの温かいもてなしに次第に心からの笑顔を見せるようになっていった。

店の悩みも忘れ、ただ、一人の女性としてその時間を楽しんでいるようだった。


その夜。

俺たちは部屋の露天風呂から美しい月を眺めていた。


「…ありがとうございます、拓也さん」


楓が静かに言った。


「こんなに素敵な場所、初めてです。なんだか夢みたい」


「そうか?」


「はい。拓也さんといると、いつも私が知らない新しい世界を見せてくれるから」


彼女のその言葉が俺の胸に突き刺さった。違うんだ、楓。俺がお前に見せているのは偽りの世界だ。


俺はもう限界だった。

この愛する人を騙し続けるという卑劣な行為に。


俺は隣にいる楓の華奢な肩をそっと抱き寄せた。

楓は驚いたように俺の顔を見たが、その体を俺に預けてくれた。


「楓さん」


「はい…」


「俺、お前に話さなきゃいけないことがある」


俺は覚悟を決めた。

全てを失うかもしれない最後の告白を。

この王様の聖域でただの男に戻るための最後の戦いを。


俺の震える声が伊豆の静かな夜の空気に溶けていった。

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