ニアミス
スタジアムでのデートの後、俺と楓の関係はより一層深いものになっていた。
もうどちらからともなくお互いが特別な存在であることを言葉にしなくても理解していた。
俺は昼間は「拓也」として楓と穏やかな時間を過ごし、夜は「サトウ」として銀座や六本木で気まぐれに王として振る舞う、そんな二重生活を続けていた。
その日、俺は楓を連れて少し遠出をしていた。
箱根にある現代アートの美術館。
そこは俺が個人でパトロンとなっている場所の一つだったが、もちろん楓にはそんなことは言っていない。
二人で静かに作品を眺め併設されたカフェで美しい庭園を見ながらお茶を飲む。
完璧な穏やかな時間。
俺は心の底からこの時間が永遠に続けばいいとさえ思っていた。
その時だった。
「――あら?サトウ様ではございませんか」
凛とした、しかしどこか聞き覚えのある声に俺は心臓が凍りつくのを感じた。
声のした方をゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは銀座のあの店のママだった。
隣には数人の客らしき見るからに裕福そうな男たちを連れている。
まずい。
人生でこれほど「まずい」と思ったことはなかったかもしれない。
ママは俺の隣にいるラフな格好の楓を一瞥すると少しだけ意外そうな顔をした。
そしてすぐに完璧な笑顔を作ると俺に向かって深々と頭を下げた。
「いつも、大変お世話になっております」
「…ああ。どうも」
俺はなんとか平静を装って短く答えた。
楓が不思議そうな顔で俺とママを交互に見ている。
「拓也さん、お知り合いですか?」
「ああ、まあ…仕事の関係で少しな」
「サトウ様、こちらの方々は?」
ママの後ろにいた男の一人が、興味深そうに俺に尋ねてきた。
その目は明らかに「お前の隣にいる、その地味な女は誰だ」と言っていた。
俺の額に冷や汗が滲む。
どうする。
どう言い訳する。
ここで下手に誤魔化せば後で必ず綻びが出る。
俺が答えに窮しているとママが助け舟を出すように男たちに言った。
「皆様、サトウ様は、プライベートでお越しのようですわ。あまりご迷惑をおかけしてはいけませんことよ」
その完璧なアシスト。
俺は心の中でママに深く感謝した。
男たちは少しだけ不満そうな顔をしたがしぶしぶ引き下がっていった。
ママは最後にもう一度だけ俺に深く頭を下げると、何も聞かずにその場を去っていった。
その背中を見送りながら、俺は自分がとんでもない綱渡りをしていることを改めて思い知らされた。
「…すごい方なんですね、拓也さんのお仕事相手って」
カフェからの帰り道。
楓がぽつりとそう言った。
その声には感心とそしてほんの少しの寂しさが混じっているような気がした。
「そうか?」
「はい。なんだか、私とは住む世界が違う人たちみたいで…」
俺は何も答えられなかった。
違うんだ、楓。
住む世界が違うのは彼らじゃない。
俺なんだ。
俺がお前とは全く違う世界に生きているんだ。
その言葉を俺は飲み込むことしかできなかった。
数日後。
俺は銀座の店に顔を出した。
ママがいつものように俺を丁重に迎える。
「ママ。先日は助かった」
俺がそう言うと、ママは静かに微笑んだ。
「いいえ。お客様のプライベートを守るのも私どもの仕事でございますから」
俺はママに現金で1000万円が入った封筒を渡した。
「助けてくれたお礼だ。」
「…まあ」
ママは、少しだけ悲しそうな顔をした。
「佐藤様。お金など結構ですよ。それよりも…」
彼女は俺の目をまっすぐに見つめた。
「あの方、とても素敵な方ですね。あなたが今までお店に連れていらっしゃったどんな女性とも違う。…大切になさってくださいね」
ママのその言葉が俺の胸に重く響いた。
アマンのペントハウスに帰り、一人夜景を見下ろす。
今回の一件はただのニアミスだ。
だが、いつか必ず隠しきれない日が来る。
俺は楓を愛している。
だが、その愛はあまりにも多くの嘘の上に成り立っていた。
このまま彼女を騙し続けるのか。
それとも全てを失う覚悟で真実を話すのか。
俺は答えを出せずにいた。
金でほとんどのことは解決できる。
だが、この問題だけは金ではどうにもならない。
俺は生まれて初めて本当の意味で途方に暮れていた。




