普通のデート
楓との初めてのデートの日。
俺はクローゼットにずらりと並んだ一着数百万はするであろう高級ブランドのスーツには目もくれなかった。
選んだのはごく普通の白いシャツと、チノパン。
腕時計も数千万円のコレクションではなく、数万円のシンプルな国産の時計を選んだ。
待ち合わせ場所は上野の美術館の前。
俺はロールスロイスを使うでもなく、久しぶりに電車に乗ってそこへ向かった。
週末の混み合った車内は少しだけ息苦しかったが、その「普通」の感覚が今の俺には心地よかった。
美術館の入り口で待っていると、少しだけ早足で楓がやってきた。
「拓也さん!ごめんなさい、お待たせしました!」
「いや、俺も今来たとこだよ」
今日の彼女はいつも店で見る落ち着いた雰囲気の店主の顔ではなかった。
少しだけお洒落をした年相応の可愛らしい女性の顔。
そのギャップに俺は少しだけ心臓がうるさくなるのを感じた。
「行きましょうか」
俺たちは二人でゆっくりと美術館の中を歩き始めた。
展示されているのは有名な印象派の絵画展。
俺はこういう芸術には疎かったが、楓の説明を聞きながら絵を眺めるのは思った以上に楽しかった。
「この画家の光の使い方は本当にすごいんです。同じ風景を描いても時間や季節によって全く違う表情を見せてくれるんですよ」
自分の好きなものについて語る彼女の横顔はキラキラと輝いていた。
それは銀座の女たちがダイヤモンドを前にして見せる輝きとは全く違う種類の本物の輝きだった。
美術館を出た後、俺たちは上野公園のベンチに座って自動販売機で買った130円のお茶を飲んだ。
「…楽しいですね」
ふと、楓が、そう呟いた。
「ああ。そうだな」
俺も心の底からそう思った。
数億円の旅館も、数千万円のシャンパンも、ここにはない。
だが、この130円のお茶は今まで俺が飲んだどんな高級な酒よりも美味いと感じられた。
公園を散歩し下町の小さな定食屋で少し遅い昼食をとった。
二人で食べても会計は2000円にも満たない。
俺は店員に気づかれないようにそっと会計を済ませた。
こんなごく当たり前のやり取りですら今の俺には新鮮で少しだけ誇らしかった。
デートの帰り道。
駅へと向かう夕暮れの道で俺たちは並んで歩いていた。
「…拓也さんって、不思議な人ですよね」
楓がまた以前と同じことを言った。
「そうか?」
「はい。なんだか、すごく遠い世界に住んでいる人のような気がする時とすぐ隣にいる普通の人みたいな気がする時があるから」
彼女のまっすぐな言葉。
俺はドキリとした。
彼女のその曇りのない瞳は俺が被っているいくつかの仮面を見透かしているのかもしれない。
駅の改札の前で俺たちは足を止めた。
「今日は本当にありがとうございました。すごく楽しかったです」
楓は深々と頭を下げた。
「俺の方こそ。…また、誘ってもいいか?」
俺がそう言うと、楓は今日一番の笑顔で頷いた。
「はい!喜んで」
彼女と別れ、一人電車に乗り込む。
今日のデートで俺が使った金は全部で5000円にも満たないだろう。
だが、俺が手に入れた満足感は銀座で一晩に数億円を使ったどの夜よりもずっと大きかった。
金の力に頼らず、ただの「佐藤拓也」として誰かと心を通わせる喜び。
それは、俺が忘れてしまっていた人間としての当たり前の感情だった。
俺は気づき始めていた。
俺の人生にとって本当に価値のあるものが一体何なのか、ということに。
そして、その価値は俺が今まで信じてきた金の力では決して手に入れることができないものなのかもしれない、ということに。




