二つの世界
楓のカフェに通い始めてから、俺の生活には奇妙なリズムが生まれた。
昼は神保町の穏やかな時間の中で、ただの「佐藤拓也」として過ごす。
そして夜になれば、ロールスロイスで六本木へと向かい絶対的な「王」として君臨する。
二つの世界。
二つの顔。
俺はそのギャップをまるでスリル満点のゲームのように楽しんでいた。
その日も、俺は昼過ぎに楓の店を訪れていた。
「いらっしゃいませ、佐藤さん」
楓は俺の顔を覚えると、いつも柔らかな笑顔で迎えてくれる。
俺はいつものカウンター席に座った。
「こんにちは、楓さん。今日も、いつものをお願いします」
「はい、かしこまりました」
俺が彼女の店で頼むのは、決まって一杯500円のブレンドコーヒーだけだ。
彼女は俺の素性を何も知らない。
服装もごく普通のどこにでもいる男のものだ。
まさか目の前の男が六本木で一晩に数千万円を使い、今は日本の夜の世界を牛耳る王だとは夢にも思っていないだろう。
俺たちは他愛もない話をした。
彼女が最近読んだというマイナーな作家の小説の話。
商店街に新しくできたパン屋の話。
金や欲望とは全く無縁の穏やかな話題ばかり。
「佐藤さんは、お仕事、何をされているんですか?」
ふと、楓がそんな質問を投げかけてきた。
俺は一瞬だけ心臓が跳ねるのを感じた。
「…まあ、自由業、みたいなものかな」
俺は曖昧に笑って誤魔化した。
嘘はつきたくない。
だが本当のこともまだ話すことはできない。
この心地よい関係を壊したくなかったからだ。
楓はそれ以上は何も聞いてこなかった。
彼女のそういうさりげない気遣いが、俺には何よりもありがたかった。
夕方になり、俺は店を出た。
「ごちそうさま。また、来ます」
「はい。お待ちしております」
楓の優しい声に見送られ、俺は再びもう一つの世界へと戻っていく。
アマンのペントハウスで、最高級のスーツに着替え、夜の戦場、六本木へと。
その夜の「Club Z」は、週末ということもあり凄まじい熱気に包まれていた。
俺が玉座に座ると、エリカやユイ、レイカたちが競うように俺の隣へとやってくる。
「オーナー!お待ちしてました!」
「佐藤さん、今日もお疲れ様です」
彼女たちの笑顔は、昼間に見た楓の笑顔とは全く違う種類のものだ。
そこには、計算と、欲望と、そして俺への絶対的な服従が色濃く滲んでいる。
だが今の俺にはその違いが面白くて仕方がなかった。
「陽介、健司。今夜は、派手にいくぞ」
俺は二人に向かって、不敵に笑った。
「フロアにいる、全ての客のテーブルに、ドンペリを一本ずつ入れてやれ。会計は全部俺のツケだ」
「「はあ!?」」
二人が、素っ頓狂な声を上げる。
そんなことをすれば、会計は一瞬で数千万円を超えるだろう。
「いいから、やれ。今夜は、祭りだ」
俺の命令一つで、店内は狂乱の渦に包まれた。
訳も分からず最高級のシャンパンを振る舞われた客たちは、最初は戸惑い、やがて熱狂し「サトウ!サトウ!」と俺の名前を叫び始めた。
女の子たちはそんな俺の姿をまるで神を見るかのような恍惚とした目で見つめている。
俺はその熱狂の中心で静かにグラスを傾けていた。
そして考えていた。
昼間の世界で楓が俺にくれたあの穏やかな笑顔。
その値段はたったのコーヒー一杯分、500円。
そして今、夜の世界で俺が数千万円をばら撒いて手に入れたこの熱狂と賞賛の嵐。
一体どちらが本物で、
どちらが偽物なのだろうか。
どちらが、幸福で、
どちらが、不幸なのだろうか。
答えはまだ出なかった。
だが、俺はこの二つの世界を両方手に入れなければ気が済まない強欲な王様であることだけは確かだった。
俺の奇妙な二重生活はまだ始まったばかりだった。




