王様の退屈
俺が仕掛けた戦争は、あまりにも一方的な虐殺であっけなく終わった。
六本木の夜の世界で俺に逆らう者はもう誰もいなくなった。
俺の王国は盤石だった。
毎晩のように開かれる祝勝会。
俺の周りには常に仲間たちの笑顔と美女たちの嬌声が溢れていた。
だが、そんな熱狂の渦の中で俺の心は不思議なほどに冷めていた。
敵がいなくなった戦場で王はひどく退屈していたのだ。
どんなに高い酒を飲んでも、どんなに美しい女を侍らせても、心が躍らない。
刺激が足りない。
その日の昼下がり。
俺は初めて誰にも告げずにアマンのペントハウスを抜け出した。
高級スーツも脱ぎ捨て、ごく普通のTシャツにデニムという格好で。
向かったのは六本木や銀座ではない。
昔ながらの風情が残る神保町の古書店街だった。
なぜここに来たのか。
自分でもよく分からなかった。
ただ、人の欲望が渦巻くきらびやかな世界から少しだけ逃げ出したかったのかもしれない。
静かな裏通りを歩いていると、一軒の小さな店がふと目に止まった。
『楓書店』
そう書かれた小さな木の看板。
古書店と小さなカフェが一緒になったような隠れ家のような店だった。
ガラス窓から見える店内には何人かの客が静かに本を読んでいる。
俺は何かに導かれるようにその店の古い木製のドアに手をかけた。
カラン、とドアベルが心地よい音を立てた。
店内は古い紙の匂いと焙煎されたコーヒーの香ばしい匂いが優しく混じり合っていた。
それは俺がここ数年全く触れることのなかった穏やかで、懐かしい匂いだった。
俺は壁一面の本棚をゆっくりと眺めながら店の奥へと進んだ。
カウンターの向こう側で一人の女性がコーヒーを淹れていた。
派手さはないが清潔感のある穏やかな雰囲気の女性。
彼女がこの店の店主らしかった。
彼女は俺に気づくと顔を上げてふわりと微笑んだ。
「いらっしゃいませ」
その笑顔には六本木の女たちが向けるような計算された媚びは一切なかった。
ただ純粋に客を歓迎する温かい光があった。
俺はカウンターの隅の席に座った。
「…コーヒーを」
「はい。豆、どうされますか?今日のオススメは、コロンビアのスプレモですが」
「…じゃあ、それで」
彼女は静かに頷くと丁寧な手つきで俺のための一杯を淹れ始めた。
その無駄のない美しい所作を、俺はただ黙って見つめていた。
しばらくして、俺の前に一杯のコーヒーが置かれた。
豊かな香りが鼻腔をくすぐる。
「どうぞ、ごゆっくり」
彼女はそう言うとまた自分の仕事に戻っていった。
俺を特別扱いするでもなく、かといって、突き放すでもない。
ただの「お客さんの一人」として、ごく自然にそこにいることを許してくれる。
この絶妙な距離感が今の俺には何よりも心地よかった。
俺は何時間もそこにいた。
コーヒーを三杯おかわりし、ただ静かに本を読んだ。
途中彼女に本の内容についていくつか質問をした。
彼女は自分の知識をひけらかすことなく、的確にそして楽しそうに答えてくれた。
店を出る時。
俺は会計をしながら彼女に尋ねた。
「この店の名前、『楓書店』っていうんだな」
「はい。私の名前が、楓なので」
「そうか。いい名前だな」
俺がそう言うと、楓と名乗った彼女は少しだけ照れたようにはにかんだ。
その笑顔が、なぜか俺の心の奥にずっと残り続けた。
その日から俺の日常に新しい秘密が一つ加わった。
夜は六本木の王として、欲望の全てを支配する。
そして、昼はただの「佐藤拓也」として、楓の淹れるコーヒーを飲みにあの小さなカフェへ通う。
金とは無縁のその穏やかな時間が、俺にとって何よりも価値のあるものに変わり始めていることをこの時の俺はまだ知らなかった。




