解放と友情の値段
その画面を、たぶん100回は見返したと思う。
目を閉じ、開いて、また閉じる。
しかし何度繰り返しても、ゼロが8個、その前に鎮座する「6」の数字は微動だにしなかった。
ろくおくえん。
声も出せず、息もできず、ただバクバクと暴れる心臓の音だけが安っぽい部屋に響き渡っていた。
次の瞬間、俺は衝動的に立ち上がると、「うおおおおおおっ!」と意味のない雄叫びを上げながら狭い部屋の中を走り回っていた。
壁に肩をぶつけても、ベッドに勢いよくダイブしても痛みは全く感じなかった。
しばらくして、ようやく呼吸を整えた俺はスマホを手に取った。
やるべきことは、もう決まっている。
検索窓に、一文字ずつ確かめるように「退職代行 おすすめ」と打ち込んだ。
そうだ、もうあの地獄へ行く必要はない。
死んだ魚の目をした部長に、ヘコヘコと頭を下げる必要もないのだ。
いくつかの代行サービスを比較し、一番口コミ評価の高いところにアクセスする。
料金は3万円。
今の俺にとっては、誤差のような金額だ。
LINEで必要な情報を淡々と入力していく。
会社の名前、部長の名前。
もう二度と関わりたくない人間の名前を、俺は自然と笑みを浮かべながら打ち込んでいた。
手続きは、驚くほどあっさりと終わった。
『承知いたしました。月曜日の朝9時に、弊社から〇〇株式会社様へご連絡いたします』
日曜日、いつもなら「明日からまた仕事か」と絶望している時間。
しかし、その日の俺は違った。
都内最高級ホテルのスイートルームを、何の躊躇もなく予約していた。
一泊30万円。
それでも、まだ有り余るほどの金が残っている。
笑いが、どうしようもなく込み上げてきた。
月曜日の朝。
俺は、ふかふかのキングサイズベッドの上で目を覚ました。
窓の外には、いつも見上げていた東京のビル群が今はるか眼下に広がっている。
枕元のスマホが、狂ったように震え始めた。
画面には【田中部長】の文字。
俺はそれを無視すると、ルームサービスでエッグベネディクトとシャンパンを注文した。
優雅な朝食の最中、友人グループLINEが動いた。
友人の一人、健司からだった。
『おい拓也、大丈夫か?お前の会社の人事から電話があったぞ』
どうやら緊急連絡先に、彼の番号を書いていたらしい。
俺は銀行アプリで6億円が振り込まれた残高画面のスクリーンショットを撮ると、それをグループLINEに貼り付けた。
『宝くじ当たった。6億。だから会社辞めた』
滝のように流れる友人たちの驚愕のメッセージを眺めていると、ふと、最近飲み会に来ない健司のことが気になった。
俺は健司に個別でメッセージを送る。
『金、困ってないか?ダチだろ、遠慮すんなよ』
既読はすぐについたが、返信はなかなか来なかった。
5分後、ようやく届いたメッセージには、隠しきれない疲労が滲んでいた。
『…なんで、わかったんだ?』
話を聞けば、親の介護費用などが重なり、消費者金融にまで手を出してしまったという。
俺はすぐに電話をかけ、彼の家へと向かった。
埼玉の郊外にあるファミレスで、やつれた顔の健司が俯いている。
「で、いくらなんだ」
「…500万だ」
数日前までの俺なら、共に頭を抱えるしかなかった金額。
だが。
「なんだ、そんなもんか」
俺はスマホを取り出し、振込画面を見せた。
「口座番号、教えろ。ここに振り込む」
「は!?馬鹿!借りるわけにはいかない!」
慌てる健司の反応は、完全に予想通りだった。
だから俺は、人生で一度は言ってみたかった台詞を最高のダチに告げた。
「誰が『貸す』なんて言った?」
「え?」
「やるんだよ。お前にやる。返さなくていい」
絶句する健司に、俺は続ける。
「いいか、今の俺にとっての500万は昔のお前にとっての500円みたいなもんだ。昔、ジュース奢ってくれたろ?あれと同じだよ」
健司は、震える手で口座情報を送ってきた。
俺は、その場で500万円を振り込んだ。
「振込完了」の画面を見せると、健司は机に突っ伏し声を殺して泣き始めた。
「よし、祝勝会だ!今夜は六本木で朝まで飲むぞ!」
俺が笑いかけると、健司は涙でぐしゃぐしゃの顔を上げて、何度も、何度も頷いた。




