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白球、シアン、修正液

作者: mixnunu



「あーあ、クソだクソ。やっぱジャンプってクソだわ」


 化学準備室に漂う、薬品とインクの融合された甘酸っぱい匂いが、2人の鼻をすすらせる。

 その空気を裂くように、吐き捨てられた少年の悪態は、張り詰めた静けさへと、細かなヒビを入れた。


 彼は「新人漫画大賞」とでかでか書かれたページを広げ、目を右に左に忙しなく泳がせる。

 押しつぶすように持たれた左ページの左端、編集部の総評欄は、文字も読めないほど、くしゃくしゃに折れ曲がっていた。


「殿様商売っていうんかなぁ〜? ほら、見てみろよ。こんな米粒みたいな六角形を佳作にしてんだぜ」

「う、うん……。里見(さとみ)君も、キャラ、いい感じだったのにね」

「見る目ねぇよなー、こいつら。お前、新連載見たか?

 あんなレベルの絵で連載させるのも酷だよなー、作家の使い切りみたいな感じでよぉ」


 中身にはもうなんら興味を示さずに、里見空雅(さとみくうが)はため息混じりに雑誌を閉じた。

 そしてポスン、と乾いた音を立てて机へ放る。


 しかし里見は、向かい合わせの机に座る“前髪で瞳を隠した少女”へと、高らかに賛辞を投げかけるのだ。


「あー……、これなら琴加(ことか)のほうが絵ぇ、うまいんじゃねーの?」

「えっ」


 その賛辞に連動してか、琴加怜(ことかれい)の顔がみるみると、茹でたみょうがのような色合いになっていく。


 恐らくは「そんなことない」と、いうつもりだったのだろう。

 しかし唇が震え、「ぞぞぞ、んなこっことなあ゛い゛」などと、化物の産声のような濁声へと変換されていた。


 濁りながらも「そんなことない」を強調するべく、両手のひらを左右に全力でブンブン振ったが、その様子は観音様(かんのんさま)か相撲レスラーにしか見えなかった。


「まぁ……つっても?

 俺は野球部の天才エースだからよ、そこまで漫画描いてねぇけど、2年にもなって賞の1個もとれねぇんじゃあ、やっぱやる気なくすよなー。

 なんか……全部、否定されてる気がして──」


 そこまでいうと、一瞬、空気が(よど)んだ。

 その様子をなんとなく察してか、里見は最後を言い渋る。


 すると突然、琴加はいすを倒す勢いで身を乗り出し、非力な両手で、里見の手を鷲掴みにした。

 一緒になって盛り上がっていたにも関わらず、琴加の頬からは、先ほどまでの赤みがすっと引いている。


「や、やめないよね……?」


 息を荒だて、たるんだ口がかっぴらかれた。

 震えて、泳いで、歪ませる。

 俗世を(さえぎ)る壁から光が失せ、グレーの瞳は、(またた)く間に闇を落とした。


 寸秒のごたつきがあったものの、里見は目を剥きつつ口角をねじり上げ、慣れた手つきで、力強い両手を優しく振りほどく。

 そして、(なだ)めるよう、穏やかにいった。


「や……! やめねぇ、やめねぇよ……!

 それにお前、俺がやめたら、がっこ、来なくなんだろ──」





「漫研すか?」


 人工的な明かりがなんとなしに薄暗く、並んだ大量のつくえの威圧感(いあつかん)を強調させる。

 しかし、俺には物怖じなど一切なく、あからさまな怪訝(けげん)を顔にだし、徹底抗議も辞さないぞ、と訴えかけたつもりだった。


 だが、この相生(あいおい)とかいう女教師は、眼鏡を拭く(かたわ)らで、ちょちょいと軽く、あしらってきやがったのだ。


「そ。漫研」

「いや、俺、野球部の時期エースで、時期四番で、時期大会MVPのモンスタールーキーなんすけど?」


「はー。まだ1年の春で、えらい自信ねー。

 ま、私にとっては、他校の生徒に暴力振るったクソガキだけども」


「だから! あれは! むこうが仲間の悪口を言ってたから──!!」

「だから! 私は! それの隠蔽(いんぺい)に協力してやったんですけど?

 ……まぁ、むこうから隠してほしいって頼まれたからだけどね」


 俺は言葉に詰まった。

 自分が不埒(ふらち)だったとは、到底、思ってもいないが、こいつの言っていることはその通り。

 下手を取れば、大会の謹慎(きんしん)だって命じられかねない。


 この女、どうやら是が非でも使いパシリが欲しいらしい。

 つりあがる眼光でしか抵抗のできない俺は、しぶしぶ、要件だけでも聞いてやることにした。


「うちのクラスにさ、不登校の子、いるじゃない?」

「いや、しらね」

「あっそぉ……いんのよ。琴加って女の子なんだけど。

 あっ、これ、変わってるけど苗字ね?」


「はぁ……」

「で、この前、この子の家に行ったとき、部活だけでも参加してみない? つってみたのね。

 そしたらまぁー、食いつきがよかったのよ」

「はぁ。それで、なんで俺が漫研に入んねぇと、いけないんすか」


「いやー、漫研って去年に部員いなくなって潰れたんだけどねぇ。

 ……私、間違えて去年の部活表もってちゃってぇー、でへへ」


 俺のあからさまが、更に()んでいく。


「漫研なんてなかったよー、つってもかわいそうじゃん?

 他の女子に頼んでさ、変に代替(だいたい)だって告げ口されたら面倒だし。

 ──そこで、あんたの出番ってわけよ」


「つまり、尻拭(しりぬぐ)いかよ」

「そんなこと言うなよ〜。ま、最初の30分、顔だすだけでいいからさ。

 竹本(たけもと)くん(監督)には、もう言ってるから」


「はあ!? 俺も顔だすのかよ!?」


「だってぇ、顧問やれる人、今いないんだも〜ん。

 ひとりぼっちに、させとくわけにも、いかないしぃー。

 私も家庭科部あるしぃー。中学教師ってほんとブラック。

 あ、活動、今日からだから。化学準備室ね」


 そこまで言うと、相生は俺の反論の余地さえ残さず、「じゃ」の一言だけで、ニコニコと進路指導室をあとにしていきやがった。

 鼻に指でも突っ込まれた気分だ。

 くそババアめが。


 とはいえ、このままサボった挙句、この琴加とかいう奴にチクられでもしたら、たまったもんじゃない。

 俺は一息つかされてしまった。


 ……だが、ようは簡単な話だ。

 この陰キャが学校にさえきて、「里見さんは、毎日、部活にきております」とでもいわせりゃ問題ないってわけだ。

 中学3年の野球漬けを、棒に振るわけにはいかねぇ。

 あのババアがその気なら、こっちだって手段は選ばん。


 時間は放課後の頭だったな。

 ここは一丁、()()()()、でケリつけてやるか──。



 木目の匂いが鼻を突き抜けるたび、何度も目に入る視聴覚室(しちょうかくしつ)へと憎悪(ぞうお)が飛ぶ。

 たしか始業式でハゲが言ってたな──「本校は築うん百年、当時は避難所の役割も兼ねてたから、造りが複雑になっている」……だったか。クソったれめ。


 とはいえ、もう二度と化学準備室なんてくることもねぇ。

 場所も教えなかったあのババアが全面的に悪いし、30分くらい遅刻してようが、それを責め立てる奴のほうが愚かってもんだろ。


 そもそも、俺には漫画なんぞをシコシコ描いてる奴に、下げる頭はない。

 となれば、そんなことに引け目を感じる意味もない。

 そうだ。そのとおり。


「……ここか」


 仁王立ちながら、普段は気にもとめない耳鳴りが、今だけ鮮明(せんめい)に聞こえてくる。

 無駄に腕を回し、数回、小さくジャンプもした。


 だが、この化学準備室と記された扉を蹴破(けやぶ)るには、今の俺に、必要十分な気力が満ちている。

 なぜならこれは、()()()()、なのだからだ。


 舌なめずりをキメた俺は、ため息が漏れないよう、いっぱいに息を吸いこんで、ハンドルを掴んだ。


 ──バーンっ!


「オラァッ!!」

「──ッ!!?」


「自己紹介するぜ! 俺の名前は里見空雅!

 野球部の時期エースで、時期四番で、時期大会MVP!!

 好きな食いもんは杏仁豆腐(あんにんどうふ)!! 以後身知っとけやァ!!」


 一瞬の静寂を、混沌(こんとん)が呑みこんだ。


 大方、想像の範疇(はんちゅう)だったが、そこにいたのは、細身で背の低い地味な女。

 ボサボサの髪が顔にかかり、目元は見えない。

 体をこちらに向けたまま、ピクリとも動かず、時間が止まる。


 ただ、口だけが金魚のように、ぱく、ぱく、と音もなく開かれてた。


 俺はといえば、そんなことなど歯牙(しが)にもかけない。

 不自然に尖らしたニヒルな笑みを、凝り固まった首の摩擦音(まさつおん)誤魔化(ごまか)すのみ。


「不登校生ちゃんにゃ(わり)いがよ、聞いての通り、俺はこんなとこで陰気なもんやってる暇ぁねぇんだ。

 痛い目みたくなけりゃよ、ちょぉーっと、大人しく言う事聞いて──」


 俺は、こいつの眼を見なかった。

 ……いや、見ることができなかった。


 しかし、見て話さなかったからこそ、ひくついた眉毛はある一点のみ、下方に凝縮(ぎょうしゅく)されていく。


「聞いて……、くれたら──」

「……? ……??」


「──これ、お前が描いたのか?」

「え? ……あっ!? いやっ、その……!」


 彼女は目をくるくるに、俺の指差す紙を、自分の体を(おお)いかぶせるようにして隠した。


 俺は、こんなものに興味がなければ、知識もない。

 ただ、否定の言葉を吐いてやるのが目的なのだ。


 しかし、たった今、腹と背中の産毛(うぶげ)同士が繋がり、貫通し、腸の奥底を食い破られた。

 そこから溢れる血液を作り上げたのは、間違いなくこいつの──。


「すげーな。……お前」


 吐きでた感嘆(かんたん)が喉を逆流し、俺はひとつ、咳き込んだ。

 彼女の眼を、みてしまったのだ。


 頬まで伸びたその前髪は、グレーの瞳に影を落とし、小さな顔の半分を覆う。

 彼女が髪を(なび)かせるたび、俺の脳みそにはフォークが突き刺され、ナポリタンのように巻かれ、巻かれ、掻きむしられた。


「す、すごい──?」

「お、おお……、すげーよ、お前」

「──!! そっ……! そうかな? え、えへへ……」


 心臓が愛撫(あいぶ)され、撫でられるたびに、毛が枯れる。

 光だ。感じたこともない光が、俺の体を、ぽぉ、と包むのだ。


 太陽と月が交わるとき、あとにはなにも残りはしない。

 照りつける炎に焦がれ、それと、だからこそ、枯れた冷たさに、震えた。



 生暖かな風が、原稿用紙と彼女の汗を、波立たせるだけ波立たせては、後の祭りと過ぎ去っていく。


 その波を、少しでも自分の世界に映しておきたく、俺は頭にヘリウムをぶちこんだ。

 ちゅうぶらりんになった視点が、机に向かう、1人と、1体を見おろす。

 もう、俺の頭は、頭の役割など、とうに忘れてしまったらしい。

 このままはじけても、しぼんでも、彼女が隣にいるのであれば、かまわない、かもしれない。


 しかし、突然、世界がかたむき、どこからか紐を引っぱられた。

 原稿用紙は、いつのまにかオレンジに染まっている。


 2人して、目を細めて、窓に掌を広げて、険しくなって。

 その動きのシンクロが、なんだかばかばかしくて、互いに笑みがこぼれた。


「さ、里見くん、今日はずっといてくれるの? 最近、すぐ帰っちゃってたけど……」

「ん? ああ、監督が腹、壊したみてぇでよ、今日、自主練なんだよ。

 大会もすぐだってんのにな、ふがいねぇよな」

「ふへ、えへへ。そうなんだ」


 俺は、グッといすの前脚を浮かして体をそらした。

 後方、ギリギリの距離間にある、カーテンの裾に手をかける。

 こいつさえなければと、また、風船状態に戻りたいだけの、一心だった。


 しかし、ふと目に入った窓の外。

 グラウンドの片隅では、2匹の蝉が「球」をなげあっていたのだ。


 奴らが体を傾けるたび、未曾有(みぞう)の腹がおおやけにさらされる。

 血と肉と、それらがぐちゃぐちゃに混ざり合って、でもなぜか、機械仕掛けの歯車が精密にからんでいるような気もして、とてもドス黒い。


 そのときだった。

 目がそいつらに、接着剤で固定された瞬間──奴らはパニックホラー映画さながらに、眼球と首をぐるりこちらに向けてきた。


 息は殺せどもう遅い。


 ターゲットはお前だと、そう言わんばかりに蝉たちは羽ばたいてくる。

 窓を突き破り、胸ぐらを掴んで、俺の身体を「球」にして、投げあい始めたのだ。


 一身、投じるたび、四肢(しし)はもがれる。

 一身、投じるたび、目玉はえぐられる。

 一身、投じるたび、顎はくだかれる。


 熱した身体に冷気が侵入し、血管を凍らせ、脳へと送る血液を不足させた。

 背中は冷や水がぐっしょりだった。

 もう7月だぞ。なぜこんなにも、寒いのか。


 痛みと混乱のなか、俺は無我夢中でカーテンレールを滑らせた。

 風船には、不要な情報でしかない。


「はぁ──、はぁ──」

「どうしたの?」

「い、いや、なんでもねぇ」


 俺は汗を(ぬぐ)った。


 練習を(おこた)った日は1度たりともない。

 実力は着実に伸びている。

 ここにいるのは、たかが最初の30分だけの話だ。


 じゃあ、なんなんだ。あいつらに向ける、この感情はなんだ。


 これから口にするのは、これは言い訳じゃない。

 これが──俺の血液なんだ。それだけだ。


「あのよぉ……、さっき、やめねぇとかいった今で、ちとあれだけどよ。

 今月と来月ぶんの作品、俺……パスしてもいいか?」

「え……、なんで」


 また、彼女の瞳に影が落ちかける。

 この瞬間が嫌だった。

 こうなっては、あやすことでしか通用しない。


「今月から中体あんだよ。

 まぁ、俺は天才ピッチャーだからよ、いつもの練習でなんとかなるが、周りはそうもいってらんねぇ。

 去年は3年に(はな)もたせてやったから、ちょくちょくこっちにも来れたけど、さすがに今年は顔出す余裕もねぇんだわ」


 こうも釈明(しゃくめい)を重ねようと、琴加は苦しいのだろう。不安なのだろう。

 無理もない。こいつが(すが)る相手は、俺しかいないのだから。


「も、戻ってくる? 終わったら……」

「おう、もちろん。

 あー……、なんならよ。お前も来るか?」

「え?」


「試合だよ、試合。近くの球場だからよ、お前でもこれんじゃないかって。

 まだオーダーでてねぇけど、うちのレベルならどうせ俺が先発だろうし。

 知ってるやつが投げてたらさ、ルール知んなくても、ちょっとはおもしれーだろ?」

「う、うーん……」


 琴加はほおづえをついてしまった。

 だが、俺は、俺の選択肢を、もっと、もっと知ってもらいたい。

 俺が、彼女を、受け止めたいんだ。


「ま、無理にとはいわねぇよ。

 でも、漫画の、インスピレーション? ああいうの、なるんじゃねーかなって、思って……」

「────うん。わかった。じゃあ、いってみたい」


「おう! 応援してくれや。でもまぁ、1回戦だからどうせコールドだろうけどな!」

「えへへ、……楽しみ」


 俺の喉は、生唾で濃ゆくなっていた。

 彼女の放つその笑顔は、毒とか、そういう類いのものだ。

 刺されたことにさえ気がつかないほどの、細い細い注射針が、肘の内側にプスリといき、エキスが注入される。


 打ち込まれたエキスは、気づけば全身を(めぐ)っていた。

 頭からつま先まで、もう1回、もう1回、と叫びだす。

 1本では足りない。もっとほしい。もっと、注いでくれ。


 衝動のまま、俺は立ち上がって、大きく伸びをした。

 なにかないか。

 また、エキスを俺へと突き刺すための、なにか。


「あー……、じゃあよ! 今日はなんでもいってくれ。俺がいるのも今日だけだし、なんでも従うからよ」

「う、うぇっ!? なんでも!!?」


「ん? おん。いちおう部員だし。手伝えることあんならな、今日中にな」

「あっ、ああ、あああ! そう、そうだよね! うん。

 でも里見くん! なんでもとか、いっちゃだめなんだよ!!」

「なんだなんだ。急によくしゃべって」


 その勢いがちょっとだけ可笑(おか)しくて、熱した口を冷ますべく、俺は彼女の頭をぽんぽんと叩いた。

 そのまま、少し髪をかきわけてやると、彼女は照れくさそうに払いのける。

 下唇を突き出し、顎をこわばらせ、けれども、緩んだ頬だけは、俺を見つめていた。


 それは、また新たなエキスだった。

 喉から伸びた欲の手が、もう一度、頭をぽんぽんと叩き、髪をかきわける。

 とうとう「キィー」と、威嚇をされたが、それでも頬だけは緩んでいた。


 今日が始まって、終わって、また始まる。

 笑顔がどうとかは関係ない。


 この輝かしい日々だけが、俺にとっても、彼女にとっても、「毒」なのだ。

 そんなこと、もう薄々、わかっていた、はずなのになぁ。



 揺れる大地に土埃が舞って、無数の足が交差するたび、歓喜と悲哀が入り混じる。

 外野からのざわめきは、「まさか、そんなこと……ないよね?」と、無責任な渇望(かつぼう)だけで肥大していた。


 緊迫の一瞬に全員が喉を鳴らす。

 が、俺はその歩調を乱してやりたく、ぶっきらぼうなあくびをした。

 ちらっとスコアボードを見て、名前も知らない公立校が視界に入るたび、俺の鼻くそはマウンドへと飛んでいくのだ。


「里見、そろそろ肩、作りにいけ」

「え、もう最終回っすよ? このまま諸先輩方々に締めさせりゃ、いいじゃないすか。

 2点、()、勝ち越してんですから」

「お前な……。確かに僕の采配ミスだ。

 だが、これはお前を温存させるためっていっただろう? 不貞腐(ふてくさ)れてんのはわかるが、せめて、いうことは聞いてくれ」


 このやろう。

 スポーツ推薦だとかの甘い果実を吊るしておいて、結局は自己満足の仲良しクラブじゃねぇか。

 ワンマンチームなんだから、その程度の期待には順応しておけよ。

 ……まぁ、つっても、いつものことだ。気にするな。


 口の中を通気させ、やれやれとブルペンに降りたった矢先、わっ! と、歓声が上がった。

 「里見が抑えなら大丈夫だ」なんて、さわりのいい讃美歌(さんびか)が耳たぶを揺らすもんだから、俺は天に握り拳をつきあげてやった。

 ガキどもへのサービスだ。


 見たものは讃え、また見たものは畏怖し、そして、尊敬する。


 それが俺だ。

 里見空雅だ。

 俺の、血液そのものなんだ。


 マウンドを降りてきた中継ぎマン、東方(ひがしかた)さんに背中を押されて、小さな山のてっぺんを我がものとする。


 敵チームのお坊ちゃんどもは、さぞ懸命に用意したのであろう。

 敵意の束をクロスボウに詰め、俺にめがけて発射した。


 が、そんなもの、ろうそくの火を消すみてぇに、一息で撃ち落としてやったわ。

 慣れないことを頑張っちゃって、まぁかわいい。


 相対した3番バッターの、(はな)のない眼差しが、左腕を刺し殺さんばかり。

 むけられた手のひらが、俺を促す1本のナイフと化し、「プレイ!」の一言で、背後の仲間たちの中枢神経(ちゅうすうしんけい)にまで、ナイフが投擲(とうてき)されていったようだ。


 あぁ、これだ。

 俺が、俺だけが、こいつらのすべてを、ぐちゃぐちゃにできる。

 逆流した胃酸が鼻からでていきそうだ。


 求めろ、世界。

 俺を求めろ──!




「────あれ?」


 2投目を、投げ切ったあとだったろうか。

 いや、まだボールを手から離していなかったかもしれないし、指先から解放されていったタイミングだったかもしれない。


 思い出した。

 今日の試合開始前だ。このお坊ちゃんどもが、なにか、いっていたのだ。


 「扇中(おうちゅう)は里見のワンマンだから、先発があいつじゃなきゃ、なんとかなる」だったか。

 「このレベルで注目校だなんて、勘弁してくれ」だったか。

 ──内容なんてどうでもいい。

 仲間がバカにされていたんだ。


 どうして、忘れていた。

 どうして、なんとも思わなかった。

 どうして、それで、満たされた。


 1年前のあの日、仲間の悪口をいっていた他校の野郎をボコった。

 そんなものに罪悪感はない。不埒(ふらち)だとも思ってない。


 じゃあ、今日は?

 今日の俺は……いったい、どうしたんだ。


「フォアボール!」


 球はよかったと思う。制球もすぐれていたし、フォームもいつもと同じ。

 実力は発揮できていた。

 それでも、動悸(どうき)が止まらなかった。


 これは、あれだ。

 小学2年生で、初めてたったマウンド。

 ピンポイントで起用され、一打席だけ試合に出た。


 肌に樹脂(じゅし)を塗りたくられたような不快感。

 歯が揺れて、すべてが敵に見えて、正直、逃げ出したかった。


 あのときと同じ。

 いや、それ以上の、動悸(どうき)


 でもあれは、ただの経験不足ってやつだ。

 野球をやっているやつはみんな乗り越えるものだ。

 俺もとっくに乗り越えた。


 6年も野球、やってんだぞ? 俺は。


「フォアボール!」


 ふきだしを引きちぎると、文字に脳を侵食(しんしょく)される。

 そして、次第に喉を通りすぎ、背骨をつたって、左腕にやってくる。

 文字が白球に流し込まれ、ボールそのものが、ふきだしになるのだ。


 浮かび上がった文字はエンジンで、投げると、ジェット噴射(ふんしゃ)されて、おされて、ようやくミットにとどく。


 球は、悪くなかった。制球も乱れていなかったし、フォームもおかしなところはなかった。


 しかし、それは誰かの真似でしかないのだ。

 俺の真似を、俺がしているのか。


 いま、球筋はエンジンに委ねられている。

 ポロポロとこぼれ落ちていく言葉に、もう、力などなく、エンジンはとうとうガス欠する。


 琴加……。

 そうだ、琴加がきてるんだ。

 あいつには悪いことをした。

 こんな不甲斐(ふがい)ない試合を見せて、先輩たちはなにをやってんだ。

 俺たちの邪魔をしやがって。


 だが、あとはこいつを、こいつさえ仕留めればいい。いいんだ。

 終わればまた、戻れる。

 琴加も一緒に、浮かび上がれる。


 ……あれ? 戻れ、る?

 「戻れる」……?


 俺の居場所は、もう────。



漠然(ばくぜん)と、」


 その言葉がつづられた長方形が、俺の剥いた視界に立ちはだかるとき、時空が歪んだ。

 俺に残された時間は5秒となく、それでも、空を舞う鳥の羽ばたきだけが、俺の身体と、世界を、音もなく灰にする。


 走馬灯(そうまとう)となった言葉の続きを、俺自身が、俺の耳元で、朗読し始めた。



漠然(ばくぜん)と、プロになると思っていた」


 ──5年前。

 「稀代(きだい)の天才ちびっこエース」と題して、地元のテレビ局から取材をうけた。

 この辺は田舎だから、すぐに広まって、俺は一夜にして有名人になった。


 みんな、俺を目指していた。

 すべてを背中で受け止めて、腹には傷などひとつもない。

 ひとたび振り返って、伸びる手を蹴飛ばすたび、太陽がより一層ギラギラになる。

 毎日が冒険だった。

 毎日が、生き甲斐(がい)だった。


 練習をサボったことはない。1度もないのだ。

 ない、はずなのに。


 いつからだろうか、仲間と買い食いしているとか、部室にエロ本を隠したとか、練習休みのクーラーとか。

 ただの断片に、俺の1番が、少しずつ、少しずつ、乗っ取られていった。


 いや、いつからか、なんてわかっている。

 俺の1番は、とっくに。


「こんなでも、明日になれば、あいつは──」



 (とどろ)く快音が青空を貫き、球場の空気を真っ二つに裂いた。

 俺の真上に注目が交差して、歓喜と悲哀が入り混じる。

 だが、そんなもの、すでに聞こえもしなかった。


 俺を見ていたものは、だれ1人といなかった。

 だから、大丈夫。

 こんな顔をしていても、びっしょりと濡れた背中を、見られることはない。

 ふと、青空をとっさに目で追ってみたが、漏れ出る言葉は、これ以上もこれ以下もなかった。


「あーあ、終わり」





「あれ、里見は」


 そう監督が口にすると、球児たちは初めて首を左右に振った。

 しかしそこに里見の姿はない。

 なんとはなしに、ざわめきだした部員たちに気づいたのか、新キャプテンの阿部(あべ)が、おずおずと手を挙げた。


「監督……あの、例の漫研じゃないですか?」

「ん? でも、いつもはこの時間にはきているだろう」


 そこまでいって、竹本は、はたと気づくように「あー……」と声を漏らし、こめかみをちょんちょんと叩いた。


「まぁ、先の大会は不甲斐(ふがい)ない結果に終わったが、お前らみんな、里見に頼りすぎていた部分があった。

 課題はチームの底上げだ。徹底していくぞ」

「はい!」


 部員たちはそろって、あからさまに声をだした。

 一丸(いちがん)であることの「姿勢」にだけは、余念がない。


 その様子に竹本は、満足げな表情を浮かべる。


「……それで、当の里見はどうするんですか」

「あいつは大丈夫だ。野球しかないようなやつだからな。

 何日かすれば、どうせ戻ってくるさ」




「もうやめた」

「あ、そうなの」


 意を決したつもりの表明は、存外に生返事で戻され、オレンジのつくえに跳ね返った。

 そりゃあ、あんな試合を見させられたあとだ。機嫌も興味も、冷めてしまって当然だろう。


 ──それでも。

 飛ばしたたんぽぽの種が、コンクリートの上に落ちるような気がしてしまう。

 俺は、なんとかして、一刻にも突風をおこさなければならなかった。


「なんていうかな……こう、張り合いがなくなったっていうか。

 求めてるものが違ったんだよなぁ。見放されたってよりは、むしろ見放してやった、って感じ?」


 言葉をたぐりよせ、脳をかき混ぜる。

 どうすれば届く。どうすれば、俺の声が突き刺さる。

 ガス欠しきった俺の言葉に、ミットまで届く動力などあるわけがないのだ。


 彼女は、呆れてしまったか。

 それとも、本当にどうでもよくなってしまったか。


 頼む、こっちを向いてくれ。


 求めるために、そのために堕ちてきたんだ。

 俺には、お前が、必要なんだ。


「──あ」


 駆け(めぐ)った思考は、気づけば一周していた。

 ふと、思う。

 だからどうした、と。


 俺は、こめかみを人差し指でちょんちょんと叩き、軽く首を振った。


「いや、違う。時間をかけたくないだけなんだ。俺は」

「……? どういうこと?」


「いまは、こうしてる時間のほうがいい。

 お前といる時間のほうが、なんか……いいんだよ」


 それだけでいい。

 琴加が学校にさえきて、隣にさえいてくれるなら、それで。


 言葉なんていらない。

 愚かしかろうと、浅ましかろうと、俺のエキスは琴加で、琴加のエキスはこの俺だ。


 求められたら、俺も応える。

 求められるたび、何度だって求め返す。


 それだけだ。本当に、それだけなんだ。


「いっとくけど、お前のせいじゃねぇよ? 自分の意思で、こうありたいと願ったんだ。

 呆れたかもしれねぇけど、俺は、お前と一緒にいたい。

 ひとりぼっちに、させたくない」


「う、うん……」


 この時間だけが、何者にも変え(がた)く、美しい。

 そうだ。お前だけが、俺にとっての、血液なんだ──。




 ……ん?


 なんだ。どうした。

 なぜ、琴加はうつむいている。

 どうして、心なしか火照っている。


 その突然、彼女の歯切れが悪くなった「うん」に呼応(こおう)してか、口の中は酸味と甘味で塗りたくられた。


 ちょっと待て。

 いま、俺、なんていった。


 ようやく目が覚めた。

 噛みつかれた鼻の先から、熱したいちごミルクが、頬にまで飛び出していたかもしれない。


 思わず、首をグインと真横に曲げて、乾いた眼球を逸らしてしまう。


「えーと……、あれっ? じゃあ、今日からは、ずっといてくれるってこと?」

「おぉ、おお。そ、そのつもりだぜっ! 早速、原稿とりかかるか!? つっても俺、絵ぇ描けねぇけどな!」


 逸らせ。できる限りに逸らすんだ。


 本当のことだが、こんな勘違いするようなニュアンスで、いいたかったんじゃなくて、まぁ、勘違いでもないんだけども。

 カッコつけたいわけでも、軽薄(けいはく)なわけでもなくて、そもそも琴加が相手だったからで。

 でも、それを言い訳にすると、まるでアレみたいになるし……だからなんでも、なんでもないんだ。


 だめだ、目を。今は目を見れない。

 見た瞬間に、俺のすべてをおかされる。

 防衛本能が、ここで待てといっている。


「あの……あのさ、里見くん」

「んん! な、なあに……?」


 世界が、静かに傾いた。

 彼女の輪郭(りんかく)に、チャコールグレーが差されていく。


 そして俺は、それを、判別しなかった。

 いや、とっくの昔からそんなもの、なくなっていたのかもしれない。


「嬉しい。私、嬉しいよ」



 ──────────────

 …………




 最後の審判が下される。

 自分でも、よくないことだと、わかっていた。

 これは「毒」だ。


 踏み込んだが最後、後戻りなど許されない。

 深く、底なしの、甘く濁った「毒」なのだ。


 たぶんそれは、こいつも、わかっているのだろう。

 わかったうえで、いっている。

 唇に、赤と白のカプセルを挟んだまま、俺へと、(ちぎ)りを求めてくる。


 ちょっと頭を(ひね)っては、あぁ、俺はなんてまぬけなんだろうと、今更にして思えてきた。

 でも、もう、無理だ。


「あの……里見くん? 手……」

「ごめん。でも、今は、こうさせてくれ。落ち着くから」

「う、うん。えへへ、でも、これじゃあ描けないよ」


 絡まる指と、指が、あたたかくて、そして、冷たい。


 柔軟剤の香り漂う、ふっかふかの羽毛があった。

 あれに、顔をうずめている。そんな感じ。


 彼女は、尊大な炎を背にして、逆光を浴びる。

 その光ごと、俺の身体を、静かに燃やすのだ。



 足の先がツンとしびれて、俺は立てていた膝を横に伸ばした。

 そのまま腕を組みながら、嘲笑(ちょうしょう)気味な表情を浮かべていると、ため息まじりの大人たちは、なにかと理由をつけて離れていく。


 濡れた額を乾かすには、エアコンの懸命も虚しいものだ。

 見上げた天井には、400人規模の蒸気が湯気となり、じわじわと支配していた。


 普段はなにかと浮きがちの俺も、今日に限っては、周りと気持ちを共有できていたであろう。


「えぇー、本日から新学期となりますがぁ、みなさんはぁ、十分な休息をぉ、とれましたでしょうかぁ。私はといいますとぉ、最近はジョギングをぉ──」


 今日はホームルームだけだから、早くに集まれそうだ。

 ……いま、琴加はどうしているのだろう。

 この列に混じってるわけないし──あ、もしかしたら、もう化学準備室にいるかもしれない。

 ならいっそ、便所とか嘘でもついて、さっさと抜け出してやろうか。


「ただいまより、(すぴー)前期の部活動で、優秀な成績をおさめた生徒への、(すぴー)賞状授与をおこないます。

 (ふすー)名前を呼ばれた生徒は、前へ──」


 いつの間にか終わっていた校長の話に変わって、肉団子みたいな男が、台本通りの進行を始めていた。

 取りつくろうつもりもない鼻息が、スピーカーごしに大音量で響き、一瞬にして、不快指数がマックスになる。


 ……もういいや。

 頭も痛くなってきたことだし、すぐにでも抜け出してしまおう。

 ホームルームごとき、サボっても誰も咎めはしない。

 こんなところにいたって、なにも、優れてはいないんだから。


 おっ、相生(あいおい)のやつ、ちょうどいいとこに通りかかったな。

 頭痛ってことでいいか。こっちだ、こっち。もうちょっと。あと10メートル。


「──最後に、(ふんす)漫画研究同好会。2年A組、琴加怜さん」


「は?」


 かなり大きな声がでた。

 周りの数人が、俺に視線を寄こしたが、そんなことはどうでもいい。


 呼ばれたばかりの壇上をみても、琴加の姿はない。

 代役だろうか、背の高い女子生徒が、しゃがれた声でなにやらガッツポーズをきめていた。


 6月度、新人漫画大賞、入選の受賞は数年ぶり。


 様々なワードが右耳から入っては、視覚、聴覚、嗅覚までも巻き込んで、頭部のすべてを喰らいつくす。

 すべてを喰らい終えると、何事もなかったかのように、左耳から抜けて出ていった。

 ただ唯一、残された脳みそは、ギタギタにされた傷口から、細菌がじわりじわりと入りこんでいく。


 6月度。

 6月度といえば──あれだ。


 ちょうど俺が参加しなかった月だ。


 あいつは1人で描いて、それで、それで入選。

 いままで、かすりともしなかった月例賞で、1人で描いて、入選していたのか。


 からっぽになった頭を補っていたそのとき。

 突然、コツンと衝撃が走って、俺はすべてを取り戻した。

 壇上では、長身のブスが何かをいい終え、惜しみない拍手が贈られている。

 横にいた相生が、眼鏡をくいっと、俺へも拍手を促してきていた。


 そうか、確かにその通りだ。

 あいつは、俺と違ってすごいやつだからな。

 ここは素直に祝福だろう。

 相生の指示に従うのは(しゃく)だが、この拍手は琴加へと贈るものであって、この陳腐(ちんぷ)な定型とは違う。


 そうだ、そうだよな。あいつはすごいやつ、だもんな。

 だからこそ──な。俺もな。


 あぁ、終わったらなんて褒めてやろうか。

 そうだ、帰りにファミレスにでも寄って、(おご)ってやるのもいいな。

 あいつ、きっと、よろこぶぞ。


 図々(ずうずう)しくも入ってくる喝采(かっさい)を、嬉々として迎え入れる。


 ──だが、なんだろうか。


 神経の毛をむしられているかのような、なにか。

 なにかが、俺の腹を撫でるんだ。




 道中、「学校休んで漫画描くなよ」とかほざいてる連中がいたので、とりあえずタコっといた。


 化学準備室の前。

 いつも琴加のほうが先にきているから、もう中にはいるはずだ。

 こう、急な話だと実感も湧きにくく、なんだかこっちまで裸にされたような感覚になる。


 どんなノリで接するべきか、おそらくは本人も有頂天(うちょうてん)ではあるだろう。

 サイレントトリートメント的なことを気取ってもいいが、ここは2人して馬鹿になってこそ、俺と琴加って気がするよな。よし。


 俺の内なる陽キャ魂が地団駄(じだんだ)を奏で、響く騒音は心拍数を刺激する。

 漏れ出るため息を飲み込んで、扉のハンドルに手をかけた。


「おーすっ、琴加ぁ! 元気してるかぁ!? やりやがったなぁ、おめぇよぉ!

 ()()()()()、ってやつかぁ、おい?」


 彼女はいた。ポツンといた。

 だが、レスポンスはなかった。


 こうなっては(むな)しいもので、神々(こうごう)しささえあった花々も、逆撫(さかな)でされれば、しおしおと枯れていくしかない。


 なにか、無神経でもあったか。

 もしや、このテンションが、こいつにお冷をぶっかけたのかも。


 ほら、みてみろ。いま、俺の足元さえも、濡れた冷たさに侵食(しんしょく)されていっている。

 足の裏をヒヤリと浸したのは、跳ね返ったお冷に違いない。


「あ、あー……琴加よぉ。まぁ、俺でさえ実感ねぇんだ。当の本人なら尚更よな。

 悪かったよ。無神経だったかもしれん。うん」


 なにに謝っているかも、よくわからなかったが、とりあえずヘラヘラしておいた。


 ……なにかおかしい。

 受賞の話を聞かされていないのか。


 1年と3か月、あんなにも頑張っていた。

 ときには、野球部の練習終わりまで、部室に明かりがついていたことだってある。

 なら、もっとこう……狂喜乱舞(きょうきらんぶ)と、のたうちまわるもんじゃないのか。


 うつむいた顔に影が(おお)い、また、瞳に闇が差しかかる。

 いつも、苦しくて、不安なときにしか覗かせない顔だ。

 どうして、なんで、今みせるんだ。


 机はしっかり向かい合わせ、備品もそろえて準備もしている。

 別にサボるつもりもないらしい。

 それどころか、こいつの名前が載った今週号のジャンプまで、つくえの上に置かれていた。


 はは〜ん。……もしや、サイレントトリートメント的なのを仕掛けられたのは俺のほうだったか。

 なんだ、おちゃめじゃねぇの。

 それがわかれば、ひっかかってやらんこともない。


 俺は「これ、今週の?」とだけさりげなく聞き、先ほどの不自然なテンションなどはしらんぷりに、雑誌へと手を伸ばした。


「──え」

「……っ」


 突然、それを(さえぎ)ったのは琴加の右手だった。

 とても冷たく、それでいて、力はない。

 力任せにふりほどけば、雑誌なんて簡単にとれる程度のとおせんぼ。

 それが俺には、良心へ訴えているようにみえて、少し、背筋が伸びる。


「あ、あのさぁ……、入選した、したからさぁ。こ、これで、気兼ねなく、2人で描けるよね……」

「あっ?」

「ほ、ほら、私に(はく)がついたってことはさ、私の名前で里見くんもやっていけるんじゃない!?

 部活じゃなくってさ、2人でさ、……そう! タッグ組んだりとかして、2人で漫画家目指したりしても、いいんじゃないかしら。ね……?」


 弱々しくも、激しい口調が、俺の腹を撫でまくる。

 突如と生やした手で、撫でまくる。


 (はく)? タッグ? ……なんだ。なにがいいたい。


 今の今まで感触すらなかったその手は、いつのまにか、俺の背後から伸びてきていた。

 その手の本体を確かめるように、甲から、腕、肘のあたりまで視線をすべらせ、そのとき、初めて気がついた。


 この冷水は、俺がこぼした冷水ではない。

 服も着ていない、びっしょりした女が、俺を、抱きしめていたのだ。


 じっとこちらを見て、おそらくは、ずっと前から。


 殺される。

 視認して、その瞬間に、心臓を握りつぶされる。

 びしゃびしゃの背中が、小刻みに震えている。


 この女は、誰なのか。

 いつからいるのか。

 わからない。理解したくない。


 とにかく、ふりほどきたかった。

 もう、背中が濡れるのは……たえられない。


「あ、あのよぉ、琴加。俺が原作したやつは落選してよ、お前が全部やったもんが入選してんだぜ。

 まぁ、たしかに一緒に描くのは楽しいけどよ、それとこれとは、話が別なんじゃねぇか?」


「私……! 別に……楽しくなんて、なかったし。

 漫画、読むのは好きだけど……描くの、好きくない」

「あ? じゃあお前、なんでいままで、描いてたんだよ」

「──! それは、その……」


 なんだ、なにをいってるんだ、こいつは。

 こいつ、本当に琴加か?

 宇宙人かなんかが身体を乗っ取って、適当こいてるだけなんじゃないか。


 お前はそんなこといわない。そんな退屈なやつじゃない。

 帰ってこいよ。ほら、いつものエキスで、この女を浄化(じょうか)してくれ。

 それができるのは、お前の光、だけなんだ。


 この拒絶(きょぜつ)に理由なんてない。

 あったとしても、説明をする語彙(ごい)がない。

 ベロが切り取られ、口の中いっぱいにあふれた血の味が、喉を潤すのだ。


「お前は……すごいやつだよ。才能があって、それで、ちゃんと評価もされた。

 だからこそ、やりたくなくても、受け入れるべきだ。俺なんかと一緒にいるもんじゃねぇ」

「じゃあ! じゃあ、里見くんはどうなの!? 私と一緒にいたいとか適当いって、結局、野球やめたじゃない!」


「だから、だろ! こう……なんていうかなぁ」


 俺は、彼女の眼を見なかった。

 ……いや、見ることができなかった。


 頭をかきむしると、正論がなみなみ溢れて、代替(だいたい)として生まれ変わった鉄の舌が、次第に暴れだす。


未練(みれん)はねぇし、正直せいせいしてる。……それで、それは、お前がいたからなんだよ。

 俺の中の1番がお前になって、全部をごぼう抜きしていって、野球をやる意味がなくなった。できなくなった。

 でも、お前は違うだろ。楽しくなくても、描けてんじゃねーか」

「そうだけど! そう、だけど……」


「俺は自分の意思で野球を捨てた。それは間違いねぇ。……でも、同じなようで違う。

 俺は弱くて、で、お前は、強いやつなんだよ。

 棚に上げてるみてぇで気持ち悪りぃけどよ、お前は、俺みたいにならなくていいんだ」


 壊れた蛇口から噴き出すのは、どろっどろの紅血だった。

 たりなくなった血を満たすため、俺の心臓が、これでもかと苦闘する。


 怒っただろうか。泣いただろうか。

 マーライオンから吐かれた、ジェル状の気色悪い液体が、眼を真っ黒にぬりたくり、耳も溺れさせにきていた。


 なにも、見えない、聞こえない。

 こいつを、認識できない。


 俺の言い分は間違っていない。

 100人に聞いたら、100人は俺が正しいっていうはずだ。

 それでも、なんで、心臓を撫でられるたびに、枯れた毛が逆立つんだ。


「さ、里見くん……」

「はぁ……、なんだよ」


 息を吐いた。眉間にしわをよせた。

 泣けよ。泣け。

 お前の言葉なんてその程度だと、さっさと自覚してしまえ。


「わ……、わ、私のぉ……、私が、賞を、賞をうけたとして……、それで、ええと……」


 やめろ。もう、喋るな。

 女が、女がもう、心臓に手をかけ始めているんだぞ。


 彼女の眼が、キラリと光った。

 全部だ。なにをいってこようが、全部、否定してやる。

 お前の考えは100パーセント間違っている。

 エゴだエゴ。お前は、丸出しのアホだ。


「なんだよ。なにがいいたいか、はっきりしろよ」


 いうな。

 なにもいうな。


 なぁ、頼むよ。わかってくれ。

 俺から、光を──奪わないでくれ。


「……あの、あのね。そ、そ、それで……、うけて、うけたらぁ……」


 やめろ。もう、やめてくれ──。




「さと、里見くんは、どうなるの……?」




 ─────────────────は?



 俺が、なんだ?

 俺が、どうなる? 俺、……俺?


 野球をやめて、で、それは、こいつと一緒にいたいからだった。

 じゃあ、一緒にいられなくなったら。


 ……なったら、なんだ。


 心臓には、ポッカリと穴があいていた。

 女の手では小さすぎて、握りつぶせなかったのか。

 息を吸い込むと、胸のあたりで風の通り道がはっきりわかって、身体の芯まで凍りついた。


 ゲロったわたがしが、もくもくと立ち上がり、眼球を包みこむ。

 視界が真っ白になった。


 すると、途端に頭も軽くなって、すべてがフラットにみえて──俺はようやく彼女を認識した。

 黒のクレヨンでぐしゃぐしゃにされた、彼女を認識した。


 単色の顔面が傾くたび、そこからまがまがしい灯油のような液体がにじみでて、腐った臭いが鼻をつく。

 1滴、1滴、こぼれる先は、彼女が握る俺の左手首だった。

 皮膚と皮膚の隙間にドロっとした感触が侵入し、2人を、強制的に接着させる。


 ダメだ。

 それだけは、絶対にダメだ。


 1度は突き放った防衛本能が、再度、強い警鐘(けいしょう)を鳴らし始める。

 俺は琴加と一緒にいたい。

 それは、琴加怜なんだ。


 お前じゃない。

 お前みたいな、化け物ではない。


 いや、まだ間に合う。

 いますぐであれば、まだ、接着面も乾ききっていないはずだ。

 ひっぺがせる。

 このドスを振り払うんだ。

 振り払って、また、光の世界を、拝むんだ。


「──っ!」

「え」


 ドシン、と重低音が響いた。

 反射的に音のほうへ目を向けると、力のままに飛ばされ、尻餅をついた琴加が、目を点に、そこにいた。

 琴加は「あああ」と漏らしたうち、小刻みに震えた身体を(かば)いながら、逃げるよう教室を出ていった。

 それを、呆然(ぼうぜん)と、ただ、見送る。


 ぐわん、ぐわん、と耳の奥から鈍い音が鳴り響く。

 やがて、ポツン、ポツン、と誰かが叫ぶ。


 ここからの俺の行動にはもう、脳みその働きがいっさいなかった。

 ふらつく足を癒したく、乱雑にいすへと崩れ込んでは、つくえに突っ伏して、うなだれる。

 眠たかった。寝て、起きれば、なにもかもが丸く収まる気すらした。


 ……寝てしまおう。

 そうだ、明日になれば、琴加も落ち着くだろう。

 あいつが漫画を描くのを、好きじゃないわけがない。


 きっと、今日のことなんて、すぐ忘れる。

 また、俺の正面で、光を放ってくれる。


 そうだ。大丈夫だ。

 俺が認めたんだ。安心しろ。


 だから、そんなこというな。

 お前の光だけが、俺の、安寧(あんねい)なんだ。


 激励だ。

 そうだ。俺の言葉は、ただの激励。

 頭の中で、このワードをこねくり回す。

 なんだか、風通しのよさが、心地よかった。


 風につつまれ、俺はそっと、目を閉じた。




「──あ」


 そういえば、受賞した作品って、どんな内容だったんだろうか。

 俺が原作したやつは、3つほどある。

 でも、琴加が1人で描いた漫画を、俺は見たことがない。

 いや、厳密(げんみつ)にいえば、最初に出会ったときに、見たっきりか。


 ……気になる。

 入選してんだ。出来はいいはず。

 琴加は見てほしくなさそうにしていたが、こうとなっては関係ないだろう。


 興味だ。そう、単純な興味。

 水面の下、無作為に手を突っ込んで、なにかを拾う。

 そんな興味だ。それだけだ。


 左胸のあたりがジンとして、そこから波紋が広がるように鳥肌がたった。

 向かい合わせたつくえの、橋をかけるように置かれたB5サイズの雑誌。

 そこからはなたれる眩いオーラが、俺を拒むバリアにみえて、張り上げた肩がすぼんでいく。


 なにかがおきる。

 手をつけた瞬間、俺にとって、よくないなにかが、確実におきてしまう。

 誰かが耳元で、注意喚起を囁いてくるのだ。


 数日前なら、いや、数時間前だとしても、もっと慎重でいられたはずだ。

 しかし、眩いオーラは虹色にみえて、超越(ちょうえつ)した甘美(かんび)にみえて。

 このポッカリした心臓が、血を欲しがって離さない。


 蛍光灯(けいこうとう)に導かれる()だと、わかっている。

 好奇心は猫も殺すと、わかっている。

 それでも、光はもう、ここにしかない。


 486ページ。487ページ。

 488ページ。489ページ。


 手に持った瞬間わかった。直感だった。


 そのページに指を食い込ませると、虹の光が漏れでて、甘い香りが鼻をつく。

 俺は逡巡(しゅんじゅん)する間もなく、指で挟んだそのページを開いて、刮目(かつもく)した。


「────…………」


 ……あぁ、なるほど。

 そういうことか。

 そりゃぁ、みられたく、ねぇよなぁ────。


「第125回 新人漫画大賞 若き才能の開花! 2年振り、入選 出る!!」

「『強豪校の戦力外』 琴加怜(14)」

「あらすじ 中学まで地元のエース選手だった佐藤は、野球強豪である快進高校に入学する。しかし、二年生になっても補欠のままで……。」





「……さ……くん」

「んん……」

「里見くん!」

「んがっ!? んあぁ、わりぃ、寝てたわ……。

 って、どこだここ。球場? 扇野(おうの)VS王日(おうひ)……。王日ってどっかで……。てかなんでお前、マウンド入ってきてんだよ」


「……?

 ふふ、寝ぼけてる」

「ん? ああ、そうか。そうだな。寝ぼけてんのか。まあいいか。

 じゃあよ、つったってねぇで、お前も座れよ」


「ああ、うん……。

 それよりさ、貸してた漫画、もう読んだ?」

「んあ? あれか。おお、おぉー、読んだぜ。

 恋愛漫画なんて初めて読んだからよ、よくわかんねぇとこもあったけど、なんか、こう……依存(いぞん)っていうの? ヒロインがそれを克服してく過程がな、おもろかったな」


「あっ、そこなんだ。依存(いぞん)……」

「ん、なんだ? なんか変なこといったか? 俺」

「ううん。そんなこと、ないんだけどね。その……私、依存(いぞん)って表現、あんまり好きじゃないの」

「……?」


「キャラクターにおける、いちばんの魅力ってね、私は歯車だと思ってるの。

 ほら、キャラが濃い、薄いって話あるでしょ? あれって、単なる要素じゃなくて、そのキャラクターの執着心のこと、なんじゃないかなって。

 人と人との関係、物事へのこだわり。その魅力が、物語の魅力に直結する」


「んん、あー?」


「だからね、依存(いぞん)っていうのも魅力なんだよ。深い深い歯車の一部分。

 美柑(みかん)ちゃん……、あのヒロインは報われたのかもしれないけど、物語として、克服はバッドエンドだと思う。

 私はね、あの漫画の、なにも成し得なかったところが……。

 そういうところが、私は好きなの」


「おぉ、なるほど……、いや、いいだろ別に! バッドエンドでも、ハッピーエンドでも、面白けりゃよぉ。

 最後にチューして好きっつったんだから、俺にとっちゃハッピーエンドだったんだよ!」

「えぇー、そうかなぁ」


「そういうもんなの。まぁ、そうだな、なんつーか……。

 こうやって、互いの解釈を補完しあってるほうが、漫画研究っぽいし、いいんじゃねぇか?」

「んー……それはたしかに。そうかもね────」




 上唇と下唇がふれ合い、もちっとはずんだ。

 その柔らかな感触に、まぶたがぴくりと反応する。


 窓が開いていた。

 なびくカーテンはどこか冷たく、そこから差しこむ青白い光が、俺の眉を凍らせる。


 かなりの時間、寝ていたようだ。

 ただ、りりりと、すずが聞こえる。


 ここは別棟、さらにはマイナー教室。

 先公が見回りをサボったのか。

 いや、明かりの消えた教室なんて、見逃しても仕方ないか。


 大袈裟に目をこすったのは、起きたばかりであることの主張だった。

 そう、俺が明かりを消した覚えはない。

 わざわざ照明をオフにして、教員の目を(あざむ)いたのは、目の前で、いまかいまかと鎮座(ちんざ)している、こいつだろう。


「おはよう」

「おぅ……ずいぶんな目覚めだな、琴加ぁ」


 漏れる光に照らされた肌は透き通り、まるで水蒸気か、あるいは蜃気楼(しんきろう)のようだった。

 白く、より青白く、そこに存在すら、していないんじゃないか。

 神々(こうごう)しささえも、薄気味悪ささえも、感じる。


「あのね、里見くん。話がしたい。ちょっとだけ、話、してもいいかな」


 先に口を開けたのは、琴加のほうだった。

 より一層、素直な眼差しで、こくり、見つめ返す。


「うん……。

 私ね、小学生のとき、いじめられてたの。6年生だったから、一昨年なんだけど。

 夏頃だったかな、いまぐらいの時期。

 都会のね、イラストスクールに通ってて、高い受講料、払ってもらって、で、結構、優秀生だったの」


 彼女は、もごもごと、言葉を()いだ。


「だからね、入ってすぐ、好成績だったから、ずっとスクール通ってた人たちは、気に入らなかったんだと思う。

 ブスっていわれたし、臭いっていわれたし、鉛筆、折られたりした。

 やめたかったけど、母さんと父さんは高いお金、払ってくれてたし、いいだせなくて。

 ずっとイヤだった。だれとも、もう、話したくなかった」


「ほーん……。で、そのまま鬱憤(うっぷん)が爆発して、不登校になったわけか」


 畑の溝を流れる水のような、さらりとした、そしてどろっとした微笑みを返された。

 両手に塗りたくられた青白い光が、俺にめがけて、せまりくる。


「だからね、漫画、描くの、あんまり好きじゃないの。

 好きじゃないんだけど、でも、私にとっての生命線でもある。

 私、勉強も、運動も、なんにもできないから……漫画だけが、私を私、たらしめるの。

 これだけが、生きる価値なの。

 私の中の、深い深い、コンプレックス」


「……」


「ひとりになりたかった。でも、学校にはいきたかった。母さんたちが、心配するから。

 でもね、そしたらね、ここに里見くんがいたの。

 里見くんは、私を必要としてくれた。一緒にいたいって……一緒にいてほしいって、いってくれた。

 だからね、だから、私は描いたの。漫画を。

 これさえあれば、里見くんと、ずっと……」


 数秒、口ごもり、目を閉じたり、開けたりしながら、じわじわと肩を伸ばしている。

 その言葉にたどりついたのは、俺のほうが先だったらしい。


 言葉を求める涙ぐんだその顔が、どうしようもなく滑稽に見えて、俺は少し無視をした。

 無視をして、腕を組みながら、足も組んで、りりりを耳に、馴染ませる。


「────……里見くん」

「ん……」


「好き。里見くんのこと、好き。

 私も、ずっと一緒がいい。

 漫画なんて描かなくても、ずっと、一緒に──」


 たたずむ彼女は、恍惚(こうこつ)として青白く、美しくて、綺麗で、可愛らしくて。


 頬に釣り針がひっかかる。

 無理やりに、真上へと、俺を引き上げていく。


 口裂け女みたいになった右唇は、千切れることなどお構いなしだった。

 ガッチリと、顔の筋肉ごと、表情を操作されている感覚。


 俺も、同じだった。

 まったく同じことを、いうつもりだった。


 その以心伝心に、血管が湧き上がり、血がめぐって、頬が痛む。


 この手を握れば。

 こいつの、手を、握れば──。


 俺は……。


「──琴加」

「…………」



「ねーわ。それは」




 席を立った。

 カバンを持った。

 歩いて、扉の先に、向かった。


 眉間(みけん)と、頬と、顎。

 歪んで、とても熱くて、とても痛い。


 彼女の髪が、(なび)く音が聞こえた。

 狼狽(うろた)えたかどうしたかで、真横を通りすぎるこの俺を、顔で追ったのだろう。


 あいつが、どんな顔をしていたか、わからない。


 顔を、見なかった。

 見たく、なかった。


 そこに、琴加はいなかったのだ。

 おそらく──俺が存在する限り、ずっと。


 うずまいて、うずまいて、うずまいて。

 モジャモジャの、長く黒い毛で、(おお)われていく。


 もう、なにも、でてくるものはなかった。

 なにを思っても、なにも感じなかった。


 光が、失せていく。


「あぁ……! あ、かぁ、かっ……!

 描くからっ!! 私、漫画、描くから! だから……」


「──────…………」




 そして、俺が振り返ることはなかった。

 その騒音をあとにして、化学準備室のその先へ。

 闇夜へと、足を踏み入れて、消えていった。



 次の日、初めて部活をサボった。

 また次の日、部室を覗きにいったが、あいつの姿はなかった。


 正直、この選択が正しかったとは思っていない。

 あいつのためになったとか、俺のためになったとか、そんな綺麗なことは微塵(みじん)もない。

 ただ1つの、ちっぽけなエゴを、貫きたかっただけなんだ。

 俺も、あいつも。


 野球をやり直すことも考えたが、庭で投げてみて、もう、50キロもでなかった。


 戻る資格なんてない。

 俺にはもう、居場所がないんだ。


 影ごしの日差しに産毛(うぶげ)が透け、黒板とチョークの摩擦音(まさつおん)が、単調なリズムを刻む。

 名前も覚えていない数学教師の、かすれた金切(かなき)り声だけが、俺をかろうじて現世にとどめるのだ。


 廊下側、前から2番目の席。

 その空席に意識をやるたび、太陽の匂いが鮮明(せんめい)になる。


 怪我での引退だとか、あいつが転校するだとか、そんな劇的なことでもあれば、もっと、俺も、被害者ぶれていたのかもしれない。

 いや、ただ、そうなれば楽なだけなんだ。

 いまとなにも、変わらない。


「こりゃあ、里見ぃ! 寝てんと教科書くらいは開かんかぁ!」


 雑音に雑音を重ねるように、うすらハゲがニヤつきながら、チョークをこちらにむけてきた。

 こいつ、前までは俺が寝ていようがスルーしていたくせに。

 弱ったやつには、とたんに目くじら立ててきやがんだ。


 俺は、「ああ」とも「うん」ともつかない返事をして、だらけた体をおこした。


 微かに聞こえる嘲笑(ちょうしょう)が、1つ残さず身体に染み込んでくる。

 空っぽの心臓に旗を立て、滲む血を囲いながら、我が物顔で笑い飛ばしてくる。


 教科書の入ったスクールバッグに手を突っこんで、まさぐるたび、その空虚(くうきょ)に隙間風が走るのだ。


 俺の中身は、全部、あいつだった。

 そして、それで満足だった。


 琴加がいなくなって、俺のちっぽけさが露呈(ろてい)したんだ。


 あいつ、いじめられてた、とかいってたな。

 この欠落を、すでに体験していたんだ。

 だからこその、俺への危惧(きぐ)


 アイデンティティが縮んでいく。

 自分が、自分じゃ、なくなっていく。


 なんだか、すごく、生きづらい。


 カバンの奥で、ゴツい紙の感触があった。

 ぶっきらぼうなあくびをして、その紙の束を引きずりだす。

 鉛のように重たくて、腕がちぎれそうだ。


 もう、なにも、どうでもいい気がして、ならないんだ。


「────……あ」


「こりゃあ! 里見ぃ! 授業中に漫画でも読む気かぁ!!」


 生徒の嘲笑(ちょうしょう)に気分をよくしたのか、ねちゃっとしたハリのある声で、また怒鳴(どな)られる。

 しかし、俺の中を占領(せんりょう)していた熱気は、ほんの少し、落ち着いていた。


 この本。

 なにか、俺のなにかを、壊しにくるんだ。



「プロが教える 漫画の描き方」


 ショッキングなほどにゴテゴテの、ラメ入り表紙。

 それに日差しが反射して、思わず目を薄めた。


 いつだったか、琴加から借りたもんだ。

 そのままパクってた。


 借りたのは、1か月前。

 つい最近だ。

 あいつ、本気で俺も漫画家にするつもりだったのか。


 こういうことに気づいてしまうと、あいつを眺めていただけの俺と、琴加との、格の違いを思い知らされる。


 この本、別に読んではいない。

 これから先、読むつもりもない。

 なんなら、いまのいままで、忘れていた。


 だが、なんだ。

 何故か、なぜか()きつけられる。


 俺は一体、なにをこいつに、求めているんだ。



『描くからっ!! 私、漫画、描くから! だから……』



 あの一瞬が、また、こだまする。


 目を剥いた。

 顎がたるんだ。


 口に太いパイプが突っ込まれ、かっぴらかれ、そこから水をたらふく注がれる。

 そんな、そんな感覚が、全身を駆け(めぐ)っていく。


 バカだとは思ってる。

 そんな単純な話じゃないことくらい、わかっている。


 それでもこの衝動は、これだけは、間違っていない。

 なぜか、断言(だんげん)できるんだ。


 数学のノートを広げた。

 ハゲが物足りなさそうな視線をしていたような気がしたが、そんなことはどうでもいい。


 絵、絵だ。

 絵を描くぞ。


 たしか、顔は側面、正中線(せいちゅうせん)を立体的にするんだ。

 そして、それで、眉間(みけん)のあたりが頭の中央。

 そこに習うように、顔を描く。


 なんだ。案外、描けるじゃないか。

 構図はまだまだだが、時間をかけて、この本から学べばいい。


 やってやる。

 俺が、俺として、琴加の、隣にたつんだ。


 ふと、正面を見てみると、光の粒子が手になって、指をさしながら、俺を導いてくれていた。


 その熱気が、隙間風なんてものともせず、俺の心臓を焼いていく。

 それが、すごく、心地がよくて、深く、深く、ため息が漏れでた。


「────……琴加?」


 ……いや、大丈夫だ。

 ありがとう。心配なんていらねぇよ。


 わがままとか、いわれてもいい。

 あいつの──琴加怜の、隣にいたい。

 そう思うたび、身体が燃える。

 それだけは、ずっと、変わらない。


 この熱気が、心臓の脈拍(みゃくはく)が、俺なんだ。

 これが俺の、存在の主張なんだ。


 ずっと続くと思っていた、クソみてぇな卓越した日々を、俺が、取り戻すんだ──。





 お疲れ様です。最後まで読んでくださり、ありがとうございます。


 本作は、作者が学生時代に感じた焦燥感や虚無感(なんなら今でもたまに感じる)を文章にこめたのですが、皆様はどのように受けたでしょうか。


 逃げることは、選択肢であるべきです。

 しかし、その選択は最善なのか。逃げた先に見える景色は、本当に自分の望むものなのか。他人事として、安易な提案を他人にしていないか。


 里見や琴加を通じ、なんらかの気づきがありましたら、作者冥利につきます。

 ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。

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