変わりゆくもの、変わらないもの①
「ミア!」
弾む声で名前を呼ばれ、ミアはそちらへ眼を向けた。その先には、フワフワした栗色のくせ毛を跳ねさせて仔犬さながらに彼女目がけて一心に駆けてくるリヒトの姿がある。
「ミア! 一年ぶり! 元気だった?」
ミアを真っ直ぐに見つめているリヒトは、晴れやかこの上ない満面の笑みを浮かべている。一年前とまるきり同じ無邪気な彼の笑顔に、ふっと彼女の肩から力が抜けた。こうやって何度も再会を重ねることは初めてだったから、久しぶりに顔を合わせる時にはどうしても身構えてしまう。
リヒトは衝突する勢いでミアの前まできて、突然しゃがみ込む。膝を抱え込んだ彼がゼイゼイと息を切らす音が、はっきりと聞き取れた。
他の人間で、呼吸の時にこんな音を立てる者は見たことがない。
ミアは眉をひそめる。
(去年は、しなかったのに)
その音を聞いていると、何だか、妙に胸がざわざわする。ミアは医学の知識などほとんど持っていないけれども、ヒトの身体にとってあまり良く無い徴候であることは、判る。
「それ、大丈夫なの?」
思わず訊ねると、リヒトは顔を上げてニコリと笑った。髪よりも濃い茶色の瞳が煌いている。
「少し前に風邪をひいてから、こんな感じ。でもすぐに治まるから大丈夫」
大丈夫と言われても、一言ごとに息を切らされてはあまり安心できない。
唇を引き結んでミアが見守るうち、次第にリヒトの呼吸は鎮まってきて、やがて彼は、ふうと大きな息をついてからゆっくりと立ち上がった。
と。
微かな、違和感。
(?)
何だろうと首を傾げて、ミアはその理由に気付く。リヒトと、目線がほぼ同じなのだ。去年までは見下ろしていたはずなのに。
(そう言えば、何年経った……?)
ミアは改めて数えてみる。リヒトと初めて出会ってから過ぎ去っていった年月を。
死にかけていたリヒトを救ってから、ミアは、一年ごとに彼のもとを訪れていた。最初に出会ったときと同じリヒトの誕生日に、彼に自分の血を与えるために。
ミアの血は、治癒力を高めることができるのだ。ほんの一滴二滴与えるだけで、リヒトの体質そのものを変えることはできなくても、病と闘う力を彼に付与することはできる。
初めてリヒトに会ったとき、ミアは目の前で死んでいこうとしている彼をそのままにはしておけず、命を救った。けれど、それきりにするはずだった。こんなふうに何度も会いに来るつもりはなくて、一度助けておしまいになるはずだった。
それが覆されたのは、多分、リヒトの笑顔を見てしまった時だと思う。
真っ直ぐに笑いかけられて、ほだされた。
そして、毎年、リヒトに会うまではこれで終わりにしようと心に決めてここに足を運ぶのに、気付けば、いつも別れ際には再会の約束を交わしてしまっている。
(だって、懐いてくるのだもの)
目が合った瞬間にこの上なく嬉しそうな満面の笑みを浮かべられて、それを振り切ることができる者などいるのだろうか。
今日こそこれで最後にするぞと自身に言い聞かせたはずなのに、笑いかけられ決意が揺らぐ。
ここに来るたび、その繰り返し。
それが、いったい何度目になるだろう。
(三――四――……五……?)
不安の混じる困惑が、ミアの胸の中に漂う。
助けた時のリヒトはミアよりも頭一つ分は小さかった。見るからに『子ども』だった。
今の彼も確かにまだ子どもだけれど、幼くは、ない。見る気になって見てみれば、リヒトの面立ちは出会った時よりもずいぶんと変わっている。
たった五年、なのに。
出会った時が確か七つだったから、今は十二歳になったということだ。ヒトはこの時期一番変わっていくものなのだという知識は持っていても、実際に数年間継続して付き合った人間がいなかったから、ミアが実際にその変化を目の当たりにしたのは初めてだった。
けれど、そう、ヒトは――生き物は、あっという間に変わってしまう存在なのだ。
(どうして、気付かなかったのだろう)
自問して、胸の内でかぶりを振る。
違う。
はっきりと見えていたはずのものを、見えないことにしていた。
――それを、見たくなかったから。
変わっていったその先にあるものを、母がヒトであったミアは、知ってしまっているから。
そしてもう一つ。
ミアは、リヒトと『違うモノ』だから。
ミアがリヒトの変化に気付いたように、リヒトはミアが変らないことに気付いてはいないのだろうか。
(気付いたら、私を気味悪がる……?)
唇を噛んだミアを見るリヒトの眼差しが曇る。
「ミア? どうかした?」
問いながら、リヒトは額を触れ合わせるようにしてミアの目を覗き込んでくる。彼の茶色の目は温かで、ミアのことを心配している色しかない。そこに、彼女に対する畏怖や嫌悪は、欠片も見つからなかった。
(まだ、気付いていないの?)
ミアの変化に。
彼自身の変化との、違いに。
ミアは変わらない。身長も、何もかも。多分、リヒトが寿命で息を引き取るその時まで、この姿のままだ。
(リヒトは、いつ気付くのだろう)
ミアの姿が五年もの間ほんの少しも変わっていないということに。
そして、ミアの血が、彼を癒しているということに。