あなたがこの世に存在している限り
「お前が死にたくないというのなら、助けるわ」
静かな声でのその台詞に、リヒトが抱いたのは困惑だ。
「でも、どうして……?」
リヒトの虚弱さは都一の名医と言われる者すら匙を投げるほどなのだ。「どうやって」と訊くべきなのかもしれないが、彼の口から出たのは「何故」だった。
両親が助けようとしていたのは、判る。
リヒトが唯一の後継ぎだったからだ。
医者が助けようとしていたのは、判る。
莫大な報酬がかかっていたからだ。
では、目の前にいるこの少女は? たった今出逢ったばかりの、見ず知らずで縁もゆかりもない、この少女は?
彼女には、リヒトを助けることでどんな益があるというのだろう。
利害の読みには敏いリヒトにも、さっぱり判らない。
眉根を寄せたリヒトの頬から、少女の手が離れて行く。
(あ……)
とっさに引き留めようと手を上げようとしたけれど、自分の身体の一部のくせに、どうにも重くて持ち上がらない。
落胆で小さくため息をこぼしたリヒトの前で、少女が手を口元に運び、そして――小指の先を噛み切った。
「あッ」
思わず、リヒトは声を漏らした。彼女の指先で膨らみ滴り落ちた紅い雫を、息を呑んで凝視する。
少女は再びわずかにリヒトの方へと身体を傾けたと思ったら、いきなりその指を彼の唇の合わせ目へと押し込んできた。
「!?」
彼女の行動に唖然としていたから、リヒトはそれを抵抗なく受け入れてしまう。そして、そんなふうにリヒトの口を封じておいて、少女がポツリと告げる。
「私は、死が嫌いなの」
それが先ほどのリヒトの問いに対する答えなのだろうが、彼はそれどころではない。
舌の先に滑らかな丸い感触、そして、口中に広がる鉄の味。
酷い咳のあまりに血を吐いたこともあるから、判る。これは、血だ。血の味だ。
リヒトは、まだ彼の口の中に留まっている少女の指先を舌で包み、吸う。
美味しいはずがない。
少なくとも、自分のものを、美味しいと思ったことなどない。
(でも……)
少女のそれは、甘かった。
もっと、欲しい。
リヒトがそう思った瞬間、まるでその声を聞き取ったかのように、彼女がスルリと手を引いた。
(あ――)
先ほどと同じように、反射的にリヒトは少女の動きを追う。と、驚くほどすんなりと、身体が起き上がった。ついさっきまで、指一本、動かせそうになかったというのに。
「あれ?」
思わず自分の身体を見下ろしたリヒトに、淡々とした声が届く。
「まだ、死にそう?」
「え、と……」
リヒトは立ち上がり、試しにぴょんぴょんと跳ねてみた。
今なら全力疾走で屋敷まで帰れそうだ。
「ううん、全然」
「そう」
少女は短く答え、ふと自分の手に目を留め、手首の内側辺りにわずかに残った紅いものに舌を這わせた。頭を傾けた猫の毛づくろいにも似たその仕草に、リヒトはドキリとする。
「何?」
眉をひそめた少女にそう問われ、魂を引き抜かれても気づかないだろうという呆け具合で見惚れていたリヒトはあたふたと取り繕う。
「あ、あ、の、えっと」
何か。
何か言わなければ。
生まれ落ちて七年。
こんなにもみっともなく、こんなにも慌てふためいたことは初めてだ。
リヒトは懸命に頭を巡らせ、そして、とても大事なことを知らないことに気が付いた。
「そう、名前! 名前を! 僕はリヒトです! あなたのお名前を教えてください!」
多少裏返った声が、森に育った木々の間を縫って響き渡った。少女は一つ二つ瞬きをして、少し見開いた目でまじまじとリヒトを見つめてくる。彼女は座ったままで、リヒトは立っている。だから、必然的に、彼女の方が見上げる形になるわけだが。
(可愛い)
無防備な彼女のその表情に、リヒトの胸がキュゥッときつく締め付けられた。
そして。
(この美しい人がこの世に存在している限り、生きていたい)
唐突に、リヒトは、そう思った。いや、切望した。
彼女が存在しているのなら、この世界に生き続ける意味を見出せる。この世界に生きていたいと思える。
それは、彼が生まれて初めて抱いた明るい望みだった。
リヒトは今まで神様なんて信じたことがないけれど、今自分が彼女に対して抱いている思いは、きっと、世の人たちが神様を慕う気持ちによく似ているものなのではないかと、そう、思った。
リヒトは深く息を吸って、吐く。いつもなら、こんな冷たい空気でそんなことをしたらひどく咳き込むはずなのに、全然、苦しくない。
少女を見つめると、彼の顔は自ずと笑顔になった。
リヒトは真っ直ぐ背を伸ばし、片手を胸に当てる。
本で読んだ知識を駆使して高貴な女性に対する礼儀を示し、少女に一礼した。
「僕はリヒトと言います。あなたのお名前を教えていただけませんか?」
もう一度そう請うたリヒトを、少女は微動だにせず見つめてくる。
短いとは言えない時間、そうしていてから、少女はポツリとこぼすように呟いた。
「ミア」
と、ただ一言だけ。
それが、彼女の名前だった。
リヒトは嬉しくて、思わず満面の笑みになる。
少女は――ミアは、うたたねから目覚めた猫みたいな瞬きを一つして、それから、彼の笑顔につられたようにふわりと微笑んだ。
固く結んでいた蕾が綻ぶようなその様に、リヒトは心奪われずにはいられなかった。