その温もりは
後になって考えてみれば、リヒトが一番先に疑問に思うべきだったのは、彼女のような人がどうしてこんな森の中にいるのか、ということだったのだろう。
けれど、この時の彼は目の前の存在だけに頭が支配されていたのだ。
少女は体重というものを感じさせない優雅な足取りで、仰向けのまま彼女に見惚れることしかできないリヒトのもとまでやってくる。そうして、ふわりと彼の脇に膝を突いた。
彼女はしげしげとリヒトを見つめてから、手を伸ばしてくる。つつくようにして彼の頬に触れると、わずかに眉根を寄せた。
「冷たい。私よりも冷たいなんて、お前、本当に生きてるの?」
「こうやって言葉を交わせているので、多分、生きていると思います」
答えてしまってから、しまったと思った。
まだ都の屋敷にいた頃から、こういう彼の物言いは、しばしば周囲の大人たちを不快にさせていたのだ。この森の中の屋敷に移ってからはそもそも会話というものをすることがなかったから、すっかり忘れていた。彼らにはどう思われようが構わなかったが、この人には――この人にだけは、疎まれたくない。
会ったばかりで、碌に会話も交わしていないというのに異常な執着だという自覚はある。
けれど、そんな理性の声など、そよ風ほどの力もない。
とにかく、リヒトは、この少女をこの場に引き留めておきたかった。この少女に、ほんの少しでもいいから、自分に対する好意を持って欲しかった。
「えぇっと……その……つまり、――生きています」
必死に言葉を探したものの、結局間が抜けたことしか言えない。
終わった……と絶望的な思いに落ちたリヒトの前で、少女は目を丸くしていたが。
「そのようね」
コクリと頷き、また首を傾げた。
そんな仕草は、美しいだけではなく、可愛らしくもある。少女を怒らせた様子がないことにホッとしながらも、リヒトは彼女の全てに魅入られた。
少女は再び手を伸ばし、手のひらでリヒトの頬を包み込むようにして、触れてきた。冷え切った彼の肌に、仄かな温もりが伝わってくる。たおやかなその手は、彼のものよりもせいぜい一回り大きいくらいか。
最初は片手だけ、次いで両手で、頬を挟まれる。まるで、彼女の温もりをほんの少しでもリヒトに与えようとしているかのように。
先ほど「私よりも冷たいなんて」と少女は言っていたけれど、確かに彼女の体温は高くない。実際の温度は、リヒトの全身を凍えさせているこの空気と同じくらいだろう。
にもかかわらず、リヒトは、不思議なほどにそれを温かく感じた。
どうしてなのだろうと、彼は幾度か目をしばたたかせる。
そして、ああそうかと、思い至った。
(こんなふうに触れられるのは、初めてだ)
何かというと体調を崩すリヒトに、両親が自らの手を伸ばしてきたことはない。三日四日と彼が寝込んでいても、部屋を覗きに来ることすらなかった。入浴の介助や寝込んだ時に清拭してくれる分だけ、使用人の方が接触することが多かった。あるいは、診察をする医者とか。
とにかく、リヒトの中の『職務ではなく触れられた記憶』は、非常に乏しいものなのだ。
今もただ、彼女の手のひらが自分の頬にくっついているだけ。
ただそれだけのことがこの上なく心地良く、リヒトはなんだか頭がボウッとしてきた。この寒さの中をずいぶんとうろついていたからもしかしたら熱が上がってきたのかもしれないけれど、もしそうだとしても、多分、それだけではないと思う。熱で朦朧とするのは何度も経験してきたが、一度たりとも、こんなふわふわとした気持ち良さを感じたことはなかったから。
リヒトは彼女の手のひらの感触にもっと意識を注ごうと、目を閉じた。
ああ、やっぱり――
(気持ちいい)
人に触れられるということがこんなにも気持ちを和らげてくれるものだとは、ついぞ知らなかった。
(この人がこうやってくれていたなら、夜も眠れそうだ)
リヒトは睡眠にも問題があって、寝つきが悪く、眠りも浅い。けれど、彼女がこうして触れていてくれたなら、ストンと眠って朝までぐっすり休めそうだった。実際、今もそうなりかけている。
このまま眠りに落ちてしまいたい。
ふぅっと意識が遠のきかけたとき。
「で、お前は死にたいの? 死にたくないの?」
淡々と問いかけてきた声に、リヒトはハッと目蓋を上げた。
「え?」
「さっき、死ぬのかな、と言っていたでしょう? その方がいいの?」
首を傾げた彼女に再び問われて、リヒトはいくつか瞬きをした。
(死んだら――)
死んだら、この人を見られなくなる。
死んだら、この人に触れられなくなる。
――それは、いやだ。
気付けば、リヒトは答えていた。
「いいえ。死にたくないです」
答えてから、彼は目を丸くする。
生まれてこの方、少なくとも物心がついてから、「死にたくない」と考えたのは、そう声に出したのは、これが初めてではなかろうか。
だが、つい先ほどまで死んだ方が良いだろうかなどと思っていたにもかかわらず、確かに今の彼は、たとえ一呼吸分だけでもいいからこの瞬間を引き延ばしていたいと切実に望んでいたのだ。
少女はリヒトの目を見つめ、言う。
「お前が死にたくないというのなら、助けるわ」
夜のしじまに響くその声は気負いも憐憫も感じさせず、ただ事実を告げているだけのようだった。