この身に巣食う獣
リヒトは紅く染まったミアの服を脱がして、湯を湛えた浴槽の中にそっと下ろす。細心の注意を払っているから、音が響く浴室の中でも、微かな水音が漂う湿気を揺らしただけだ。肩まで沈めると、湯の温かさにホッとしたように彼女は小さな吐息をこぼした。
力が抜けきったミアの頭を慎重に湯船の縁にもたれさせ、リヒトは唇の端に引っかかった銀髪を指先でよける。頬に飛んだ紅い雫を親指で拭い落とし、そのまま滑らかな頬を手のひらで包み込んでも、彼女の薄い目蓋はピクリともしなかった。
幼子のように眠るミアがたまらないほど愛おしく、リヒトは身を乗り出し丸い頭の天辺にそっと口付ける。
「ごめんね、ミア」
囁いたところで、返事はない。
穏やかな寝顔を見つめながら、リヒトは声に出さずに苦笑した。
全てが彼の目論見通りだったということを知ったら、ミアは怒るだろうか。
愛とは、相手の為を思えるものらしい。
だったら、自分本位のこの想いは、愛とは呼べないのかもしれない。
多分、恋などいう可愛らしいものでもない。
一番相応しいのは、執着という言葉か。自分の傍に置き、誰にも見せず触れさせず、自分だけのものにしたい――こんな醜悪な願いを持つのだから。
「でも、想いに名前を付けても意味がないよね」
囁き、リヒトは水に揺蕩う銀髪をすくい上げる。
ミアがリヒトに向ける想いだって、そうだ。
初めてリヒトと出会った時にミアが抱いた想いは、同情や憐憫だったのだろう。続く二十年間も大差ないに違いない。そして今、彼をヴァンピールにしたことで、それが義務感か――あるいは罪悪感に変わったか。
(きっと、彼女のそれだって、恋や愛ではない)
だが、リヒトはそれでも構わなかった。ミアが彼と共にいてくれるなら、想いの名などどうでも良かった。
『放さないで』
かすれた声でのミアの囁きがリヒトの鼓膜に蘇る。
彼は弄んでいた銀糸を唇に寄せた。
「放したりなどするものか。あなたは、僕のものなんだ。ようやく、僕のものになったんだ」
ミアはリヒトを受け入れてくれた。
だから、彼女の全ては、彼のもののはず。
「ああ、でも、足りないな。まだまだ、足りない」
絶対に切れることのない絆で結ばれたはずなのに、まだ全然満足できていない。叶うことなら彼女の全てを呑み込んで、この身の内に閉じ込めてしまいたい。
そんな思いが伝わったかのように、ミアが微かに身じろぎをする。
リヒトは微笑み、ゆっくりと湯に手を差し入れ彼女を抱き上げた。腕にかかる柔らかな重みに、また、愛おしさが込み上げる。
知らず腕に力が籠もってしまったのか、ミアの目蓋が震えた。
「リヒト……?」
一つ二つ瞬きをして青い瞳をリヒトに向けてきたミアは、幼子のようにあどけなかった。
「寝ていて下さい」
囁きと共に微笑みかけると、トロリと目蓋がまた落ちる。
「ん……」
ミアは不明瞭に何かを呟いたかと思うと、力を抜いてリヒトの胸にもたれかかってきた。そんな彼女を渾身の力で抱きすくめたくなるのをこらえるのは、至難の業だ。
「本当に、こういう時のあなたは素直だな」
リヒトは苦笑混じりに呟いた。そうして、ミアの小さな身体をすっぽりと包み込むように抱き直す。
初めて出逢った時、リヒトはミアに守られる側だった。今の彼はこうやって彼女胸の中に閉じ込めておくことができる――彼女をこの手で守ることができる。
だから。
「逃がさないよ」
リヒトはミアのこめかみに唇を押し当て、囁いた。
「たとえあなたが僕から離れようとしても、僕は決してあなたを放さない」
それは一方的な宣言だ。ミアの意思や望みを確かめてはいないし、これからもそうするつもりもない。ミアがどう思おうが、リヒトの方に彼女を手放すつもりなど更々ないのだから、確認するだけ無駄というものだ。
彼女に対する想いが常軌を逸しているものだという自覚はある。
だが、自覚があっても、どうこうできるものではない。
リヒトは変わることができないのだから、ミアに諦めてもらうしかない。
「でも、あの時、僕を見つけてしまったあなたも悪いんだよ」
脳裏によみがえるのは、月下に佇む彼女の姿。二十年が経った今でも鮮やかで、ほんの少しも色褪せていない。
初めて逢ったあの時に、自分の笑顔がミアの中の何かに触れたのだということが判った。だから、逢うたび彼女に笑いかけた――明るく、屈託なく。そうすることで、十年かけて彼女を絡め取っていった。
ミアの心の中に彼の存在を根付かせるまで、十年。
仮初にとは言えその身を手の内に捕らえてから、十年。
臆病で――存外に強情な彼女の全てを得るまで計二十年かかってしまったが、ようやく、成し遂げられたのだ。
「まったく、あなたが求めてくれたなら、僕は何になろうが構わなかったのに。たとえこの身が見るに堪えない醜悪な化け物になろうとも、僕はあなたを放しはしないのに」
同じ時を歩めるものになれるなら、それがどんな存在であろうとも、構わなかった。
それなのに。
「三年、か」
二十年も待ったリヒトに、更に三年待てとは、ミアも残酷なことを言う。
そんなこと、できるわけがない。
だから。
(アデーレは良い具合で動いてくれた)
リヒトはひっそりと笑む。
妬みに狂った彼女が何かしでかすだろうことは想定内だった。今か今かと待ちかねていたが、ようやく動いてくれてホッとした。
刃を手にした腕を掴まれアデーレはずいぶんと面食らっていたが、その分、下手に抵抗されずに済んだのだろう。無事、目論見どおりの傷を作ることができた。自分が持ち込んだ凶器がリヒトを傷付けたことに度肝を抜かれて逃げ出したアデーレがこれからどうするのかは、知ったことではない。恐らく、もう屋敷内にはいないのだろう。
全てが、計画通りだ。
ミアからリヒトをヴァンピールにする以外の選択肢を奪い、彼女が言った三年の期限をないことにできた。
この先ミアがリヒトに愛想を尽かすことがあったとしても、きっとミアは彼を捨てられない。彼女が彼をヴァンピールにしたのだから。
ミアの中で、これは、小さな棘になる。
「ごめんね、ミア」
また呟き、リヒトはその言葉とはかけ離れた顔でひっそりと笑う。
いずれミアは、リヒトが可愛らしい仔犬などではなかったことに――この身の内に潜む醜い獣の存在に気付くだろう。
だがもう遅い。
リヒトは立ち止まり、目を閉じる。
そうすると、身体――いや、魂の奥深くにあるミアとのつながりを感じることができた。彼女の眷属だから在るつながりを。
もしもミアがリヒトのもとから逃げ出したとしても、これがあれば容易に見つけ出すことができるだろう。
「これからは僕がいるから。僕があなたの傍にいて、ずっと、あなたを守るよ」
ミアが望むと望まざるとに関わらず。
他に、誰も要らない。
リヒトには――それ以上に、ミアには、誰も。
ミアには、リヒトさえいればいい。
「そうだよね、ミア?」
彼は胸にもたれているミアの顎をそっと持ち上げ、重ねるだけの口づけを落とした。




