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闇森の獣は光に焦がれる~氷輪の姫と病める光明~  作者: トウリン
そして、今

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変容

 リヒトの真上に掲げたミアの首筋から、深紅の雫が滴り落ちる。

 頬を濡らすそれをリヒトは微かに震える指先で拭い、舌先で舐め取った。一滴一滴が貴重な霊薬であるかのように、ゆっくりと、丁寧に。

 けれど、彼にはそれだけでは足りない。


「ちゃんと、飲んで」

 囁きながら頭を下げたミアの首の後ろにリヒトの手が回される。

「ありがとう」

 血の気の引いた顔で微笑みながらミアを引き寄せた彼の力は思っていたよりも強いもので、彼女は少しばかり安堵する。

 その力に抗わず、ミアはリヒトに身を重ねた。頬を擦り合わせるようにして頭を下げると、不規則なリヒトの吐息が彼女の耳朶を撫でる。それが途絶えてしまわぬことを、彼女は心の底から祈った。


「重くない?」

「あなたが?」

 問うたミアにリヒトが答え、笑う。そして次の瞬間、グイと彼の腕の中へと引き込まれた。

「あっ」

 そんな力が加えられるとは思っておらず、ミアは前のめりに倒れ込んでしまう。命の灯が消えかけているリヒトの負担になってはいけないと、慌てて彼の頭の両側に手を突いて身体を支えようとした。が、そんなミアの配慮など無視して、リヒトは彼女をきつく抱きすくめてくる。彼女のうなじに置かれていたリヒトの手が背中を滑り下り、彼の腕が腰に回された。それは、逃がすものかと言わんばかりにきつく締め付けてくる――鋼鉄の鎖さながらに。

 そんなふうにしたら、傷に良くないに決まっている。


「リヒト、もっと力を抜いて」

 彼の身を案じて発したその台詞に、しかし、いらえはない。

 言葉の代わりにミアの後頭部を包み込んでいたリヒトの手が銀髪をかき乱すように動き、地肌をまさぐった。こんな時なのに――こんな時ですら、ミアは彼に触れられて心地良いと思ってしまう。

 ミアはギュッとリヒトの肩を握り締めた。と、優しいけれども拒むことを許さない力が彼の指先にこもり、彼女の頭を傾けさせる。


「リ、ヒト」

 その力の強さに戸惑い無意識のうちに名を呼んだが、彼は応えない。無言のまま柔らかな唇が首筋に触れてきて、ミアは思わずびくりと肩を震わせる。それがリヒトに伝わったのか、彼は動きを止めた。

「いいの、飲んで」

 促しで、リヒトがまた唇をミアの肌に押し当てる。そして、溢れる血潮を呑み下した。


 間に合うだろうか。

 ミアは視線を上げて温室の硝子の向こうを見遣った。

 まだ、今はまだ辛うじて射し込んでいる夕日の名残も、もう森の向こうに消えようとしている。リヒトが完全にヴァンピールとなるまでには、夜の闇が訪れてくれているだろう。


「早く」

 飲んで。

 この血を。

 一口ごとにコクリコクリと鳴るリヒトの喉の音に、ミアは祈る思いで耳を澄ます。


 どれほどの時が過ぎた頃か。


 ミアはそろそろ良いだろうかと、リヒトの上で身体を起こそうとした。

 が、できない。がっちりと抱き締められていて。


「……リヒト……?」

 名を呼ぶと、少しばかり力が緩んだ。ミアはリヒトとの間に手をねじ込み、渾身の力で腕を突っ張り身を起こす。許される限り背を仰け反らせ、彼を見下ろした。

 温かな茶色だったリヒトの瞳は、今はもうほとんど紅と言っていいほどになっている。彼の頬もミアと同じ磁器を思わせる白皙で、手のひらで触れてみても、温もりは感じられなかった。

 この変化は、失血のせいではない――はず。

(でも、まだ、だ。まだ、もう少し)

 その目が、深紅に染まるまで。


 ほ、とミアが息をつくと、リヒトは彼女の頬に触れ、愛おしそうに目を細めた。そうしてミアを抱いたまま、彼はすっくと身体を起こす。ずいぶんと軽い動きだ――ついさっきまで死にかけていたとは思えないほどに。

 まだ彼はヴァンピールにはなりきっていない。それでも、もう大丈夫なのだろうか。

(もう、リヒトは死なないの……?)

 無意識のうちに、ミアは両手でリヒトの頬を挟み込み感触を確かめる。温もりがないのは、本当に、ヒトではなくなってしまったからでいいのだろうか。


 自信が持てずにミアが眉根を寄せていると、リヒトが彼女の手を取った。そうして彼は頭を下げて、ミアの掌の膨らみに口づけ上目遣いで見つめてくる。

 目が合って、ミアはドキリとした。

 彼の瞳のその奥にちらつく輝きは、何を映したものなのだろう。

 不安になるのに、どうしてもその眼差しから逃れられない。


「ミア?」

 呼ばれて、ミアは目をしばたたかせた。

「いたずらなんかしてないで、もう少し飲んで」

 口早にそう言って、ミアは彼を睨み付ける。不機嫌さを装わなければ、彼に丸呑みされてしまいそうな気がした。

 責めたミアに、リヒトはほんの少し彼女の手のひらから唇を浮かせて微笑んだ。

「ああ、ごめん。僕を心配してくれるあなたがあまりに愛おしくて、つい」

 言葉以上に雄弁なリヒトの眼差しに、ミアはグッと息を詰める。そしてフイと眼を逸らした。

「今はそういうのいいから、真面目に飲んで!」

「了解。ああ、でも、もうだいぶ止まってきてしまったな」

 囁きながら、リヒトは先ほどまで舌を這わせていた辺りを指先で撫でた。そしてその指を、彼女自身が裂いたのとは反対側に滑らせる。


「ねえ、こっちからももらっていい?」

 邪気の無い眼差しでミアを覗き込み、リヒトはそう問うてきた。彼の口元から、鋭く尖った犬歯が覗く。

 確かに、彼女がつけた傷はもう殆ど塞がってしまっているようだ。

 束の間、ミアは逡巡した。

 ヒトの首に噛み付くなど、ヒトでは絶対に有り得ないことだ。それをするということは、リヒト自身にそうさせるということは、本当に、彼の中からヒトである部分を消し去ってしまうことになるのではないだろうか。

(でも……)

 ミアは微笑むリヒトを見つめた。

 いずれにせよ、リヒトにはまだもう少し彼女の血が必要だ。そして、これから先、また誰かの血を必要とする時がくる。彼が誰かの首に牙を立てる時は、いつか必ず、訪れるのだ。

(私が、その、最初の一人)

 ミアは一度目を伏せ、そして上げる。


「いいわ」

 コクリと頷いたミアに、リヒトは満足そうに目を細めた。

 それは確かに『笑顔』だったと思う。

 けれども、その笑みを受けたミアは、どうしたことか、飢えた捕食獣を前にしているような落ち着かなさに襲われた。

 腰を浮かしかけたミアを、ずっとそこにあったリヒトの腕が引き留める。

「リヒト……?」

 呼んだミアに、リヒトは再び彼女の後ろ頭に手を回して包み込んだ。

「もう、逃がさないよ」

 そんな囁きと共に、こめかみの辺りに置いた指先に力を込められる。頭を傾けさせられ、ミアは再びリヒトに華奢な首を晒した。

 コクリと、リヒトが喉を鳴らしたような気がする。次いで彼の頭が下がり、ミアの顎の辺りを柔らかなくせ毛がくすぐった。


 ――そして。


 尖った何かが二つ、過敏になっているミアの肌に触れ、間を置かず、ズグリとそれが突き立てられる。皮膚を破り彼女を侵してくるその感覚は、しかし、痛みを伴ってはいなかった。

 ミアはすがりつくようにリヒトの肩に爪を立てる。それでも崩れ落ちそうになる彼女を、彼の腕が支えてくれた。

 ヒトにしては長い、だが、ヴァンピールとしては短いリヒトの牙が、根本まで深々と沈められる。彼はしばらくミアを抱き締め身じろぎ一つせずにいたが、やがてゆっくりとそれを引き抜いた。ズズ、と身の内側から伝わる何とも言えない感触に、ミアは身を震わせる。

 穿たれた穴から溢れ出したミアの血を――力の源を、リヒトは貪った。

 先ほどまでとは違い、滴るものを受け止めているだけではない。今のリヒトはミアの肌に唇を這わせ、吸い上げ、彼女の全てを奪わんばかりにそこから溢れるものを飲み下していく。


 このまま、リヒトに喰らい尽くされてしまいたい。

 ふいに、ミアの頭に、そんな欲求が生まれる。

 不可解な衝動に駆られ、ミアは肩口に埋められているリヒトの頭を抱き締めた。

 と、リヒトが顔を上げ、彼女を見る。


「ミア?」

 眉をひそめた彼と視線が絡み、ミアは知る。

(目が……)

 リヒトのその瞳は、もう、欠片も茶色を残してはいなかった。すっかり陽が落ちた暗闇の中で、二つの紅い光が炯々と輝いている。

 ヒトのリヒトは、もういない。ここにいるのは、ヴァンピールのリヒトだ。

 失われて初めて、ミアは、自分は彼の茶色の瞳が好きだったのだと、気が付かされた。

 完全な真紅となったそれを、一抹の寂しさと共に見つめていたミアだったけれど。


「痛かった?」

 案じる眼差しを浮かべたリヒトにそう問われ、目をしばたたかせる。

「ごめん。夢中になり過ぎた」

 心底申し訳なさそうに頬を撫でてくるリヒトはいつもの彼で、ミアは、胸の底にわだかまっていた不安がふわりと解けたような気がした。

(ヒトではなくなっても、これはリヒトだ。それは変わらない。いつだって、同じ)


 しばらく互いの目を覗き込んでいたけれど、ふと気付いたようにリヒトがミアを捉えていた腕を解いた。そうして、自らの腹を見下ろす。

 彼はそこに生えている柄を掴み、深々と埋められている刃を無造作に引き抜いた。

「ッ!」

 見ている方が痛そうで、ミアは思わず息を呑む。だが、当の本人はまったく何も感じていないらしい。

(痛覚は、残っているはずなのに)

 眉根を寄せたミアの前で、リヒトは埃でも払うように肉切り包丁を投げ捨てる。

 完全にそれを抜き去ってももう出血はなく、薄っすらと残った刺し傷も見ているうちにスゥッと消え去った。

「気分はどう?」

 傷があった場所を指先で確かめて、ミアはリヒトの顔を窺う。

「いいな、すごく、いい。身体が軽いし、何より、この暗さの中でもあなたの顔がはっきり見える」

 そう言って、リヒトはミアの頬に手のひらを押し当てた。彼はしげしげと彼女を見つめていたかと思ったら、不意に、頭を下げた。


「ッ!?」

 突然唇を重ねられ、のみならず、当然のように侵入してこようとする柔らかなものをそこに感じ、ミアは咄嗟に頭を引いてしまう。目を丸くしてリヒトを凝視する彼女に、彼は眉根を寄せた。

「どうして逃げるの」

「どうしてって……」

「ミアは、僕を眷属にすることを選んでくれたのだし、つまりそれは、僕がずっと傍にいることを受け入れたっていうことだよね?」

「それは、眷属にしたこととは関係ないわ」

 リヒトが傍にいることは、別に、彼をヴァンピールにするしないとは関係なく、とうに受け入れていたことだ。

「そうじゃなくて……」


 たった今まで、死にかけていたのに。


 口ごもったミアに、リヒトがニコリと笑う。至極、幸せそうに。

「まあ、いいや。とにかく、僕はヴァンピールになったんだよね? これでもう、僕はあなたのものなんだ」

「私のものって、別に、眷属にしたからといって、お前を束縛する気はないわ」

 ミアの返事に、しかし、リヒトが不満そうに眉根を寄せた。

「そう? でも、僕はあなたに束縛されたいし、あなたを束縛したいよ」

 そう言って、リヒトは両手を上げ、片方は再びミアの頬に、そしてもう片方は彼女の腰からするりと背中に回る。

 深紅になった瞳にジッと見つめられて、何となく、そのまま彼に丸呑みされてしまいそうな気分になったミアは、また少し距離を取ろうとした。が、できない。リヒトの手はただ彼女の背に触れているだけのようなのに、結構な力をこめて押しやろうとしてもビクともしなかった。

 これは、ヴァンピールの膂力だ。

(私だって、そうなのに)

 ムッと唇を引き結んで渾身の力で試みても、結果は変わらない。

 無言の抵抗はさっぱり実を結ばず、ミアはヒョイとリヒトに引き寄せられて、あ、と思ったときには再び彼の腕の中にいた。

 腕と、胸と、全てを使って閉じ込めるようにして、リヒトは捉えたミアを抱き締める。

 そうされても、体温としての温もりは感じられない。


 けれど、この触れ方は――

(――やっぱり、リヒトだ)


 そう思った瞬間、ミアの肩から力が抜ける。かなりの量を吸血されたせいか、リヒトが助かった安堵の為か、唐突に強い眠気が襲ってきた。

 くたりとリヒトの胸にもたれかかったミアの耳元で、彼が囁く。甘く、とろりとした声で。

「僕を眷属にしたのだから、ミアはずっと僕の傍にいないといけないよ」

「ずっと……?」

 ミアは、うまく働かない頭を素通りさせて、その言葉を繰り返した。

「そう、ずっと。僕はこれからずっと、あなたの傍にいて、あなたを慈しんで、あなたを守るよ」

 その誓いの証のようにリヒトはミアの頭の天辺に唇を落とすと、彼は腕の中の彼女と共に立ち上がった。

「僕はあなたのもので――あなたは僕のものなんだ。これから、ずっと、あなたの命が尽きるその瞬間まで」

 ミアの耳元でのその囁きは、見えない糸さながらに彼女に絡みついてくる。ミアは、自らそれに囚われる。


「私を、放さないで……」

 夢うつつの中で乞うたミアを包み込むリヒトの腕に、痛いほどの力が籠もった。

「放さない――放せるわけがない。僕は、あなたと共に在り続ける」

 即座に返されたその約束に、ミアの目の奥がジワリと熱くなる。


(私は、彼といる)

 これからの永い時を、共に過ごしていくのだ。

 それを望んでも、良いのだ。


 ギュッとしがみついたミアを、リヒトの腕が抱き締め返す。その力は苦しくなるほど強く、そして優しく、そここそが自分の居場所であり帰るべき唯一の場所だと――そう、ミアに思わせてくれた。


「ミア……僕の、ミア」

 囁きと共に、リヒトが優しい口づけをいくつも降らしてくれる。

 そうしてくれるのを心地良いと感じながら、ミアはゆっくりと意識を手放した。


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