最後の選択
「冗談じゃないわよ……」
再び低い呟きがあり、薔薇の茂みをこするようにして女が姿を現した。メイドの一人――アデーレだ。彼女は、やけに強い光を放つ目で、リヒトを見据えている。ギラギラとしたその輝きに、ミアは不穏な胸騒ぎを覚えた。
だが、そう感じたのはミアだけのようだ。
「君か」
振り返り、アデーレを一瞥したリヒトがため息をつく。やれやれ、という風情で。
「ミアに口汚い台詞は聞かせたくないんだけど?」
今まで耳にしたことがないぞんざいで冷ややかなリヒトの口調に、ミアは目を丸くする。と、その気配が伝わったのか、彼が肩越しに彼女に眼を移し、微笑んだ。
「ああ、ごめん。話の途中で」
「私はいいけど……」
ミアは眼でアデーレの存在にリヒトの意識を向けさせようとした。鬼気迫る彼女の気配は、尋常ではない。
けれど、ミアの不安をよそに、リヒトは肩をすくめる。
「僕たちの邪魔をして欲しくないけど、気を利かせて出て行ってはくれなそうだ。仕方ない、行ってくるよ。少しの間だけ待っていて」
見るからに渋々といった風情で立ち上がったリヒトは、ミアを見下ろし、ためらいがちに指先で彼女の頬に触れた。そして許しを請うような微笑みを浮かべて、踵を返す。
メイドの前に立ち、一言二言、彼が何かを言ったのだと思う。刹那、スッと、彼女の顔から表情が抜け落ちた。
外で話をしようというのか、リヒトはアデーレの横をすり抜け温室の出入り口へ向かおうとしている。当然、アデーレもそれに続くものだとミアは思っていた。彼女はこの十年間ずっとミアの存在をないものとしていたから、今更関心を向けてくることもないだろう、と。
が、しかし。
リヒトが数歩離れたところで、それまで微動だにせず立ち尽くしていたアデーレが地を蹴ったのだ――出口ではなく、ミアへ向かって。
(え?)
猛然と距離を詰めてくる彼女の顔に色濃くみなぎっているものは、怒りと憎悪だ。そして、眉をひそめたミアの目に、キラリと光る何かが入る。
アデーレは、脚にまとわりつくお仕着せの裾など全く事とせず、ミアに迫ってくる。その手にある物が何なのかが判っても、彼女は動けなかった。アデーレの形相が露わにしている自分への憤怒が、理解できない。数百年を生きてきた中で、こんなにも激しい感情を向けられたことが、ミアはなかった。
「あんたが――あんたさえ、いなければ!」
どす黒い怨嗟の声と銀色の刃が、間近に迫る。
あれで刺されるのか。
ようやく、頭がそう理解した瞬間。
サッと、ミアの視界が遮られる。
しばたたいた彼女の目の前にあるものは、リヒトの背中だ。間一髪でミアの前に割り込んだそれに、ドッとメイドが衝突する。
リヒトはその衝撃で微かに揺らぎはしたものの、地を踏みしめた足をほんのわずかもずらすことはなかった。
彼の肩越しに見えたアデーレの目が、大きく見開かれる。驚愕一色で染め上げて。
「あ、あんた、な、んで……」
アデーレは一歩、二歩と後ずさり、震える唇からそれだけ吐き出した。
「まったく、あと数日で穏便に自由になれるところだったのに、愚かな女だな」
そう言ったリヒトがどんな顔をしているのかは、ミアには判らなかった。彼女に見えるのは、堅固な盾のような彼の背中だけ。アデーレに向けて投げられたその声からは、呆れと苦笑が聞き取れた。
その声音で我に返ったのか、アデーレがギッと眉を逆立てる。
「何よ……何よ! 今更、自由なんて! あんたなんて、二十年前に死んでれば良かったのよ! そうなるって聞いてたから、私は――!」
「それは済まなかったな。でも、僕は女神様と出逢ってしまったのでね」
呪詛のようなアデーレの罵声に、リヒトは揶揄をこめた声で応える。憎々しげな彼女の台詞の内容など、まったく気に留めた様子はない。
だが、リヒトが聞き流したその言葉は、ミアの胸には深々と突き刺さる。
(死んでいれば、なんて)
ミアは唇を噛み、大きな背中を見つめることしかできない。
そんなことを言われて平然としている彼が、ミアには信じられなかった。それはメイドも同じだったのか、彼女がギリギリと歯を軋ませる音がミアの耳にも届く。
そして次の瞬間、斬り付けるようなアデーレの眼差しがサッとミアに向けられた。
「女神なんかであるものか、そんな化け物!」
温室の中に響いた甲高い声に、ミアはビクリと身をすくませる。
が、刹那。
「その言葉を二度と口にするなと、僕は言ったはずだよ」
リヒトの声は、冷ややかだった。触れることができたなら、一瞬で凍り付いてしまいそうなほどに。彼がどんな表情と共にそう言ったのかは判らない。けれど、それを目の当たりにしているアデーレが引きつるように息を呑む気配は伝わってきた。
「ッ! 死んじまえ!」
叩きつけるような一言を最後に、彼女はクルリと身を翻し、振り返りもせずに走り去っていく。
バタバタと乱れた足音が遠ざかり、少しして、乱暴に扉が開け閉てされる音が響いてくる。
その音を聞き届けた後、リヒトがやれやれという風情のため息をこぼした。そして、ふらりと膝を突く。
「リヒト!?」
我に返ったミアは、その場に漂う鉄さびめいた臭いに、ようやく気が付いた。転げ落ちるように長椅子から下りて、急いでリヒトの前に回る。
「それ……」
目に飛び込んできたのは、白い上着の腹をべっとりと染めている深紅と、そこに深々と埋め込まれている肉切り包丁の柄だ。
「まったく、八つ当たりもいいところだ。うまいだけの話なんて、存在しないのですけどね」
「何を言って……何でこんなことするの! 私なら、すぐに治るのに!」
そう、ミアならすぐに治る。
けれど、リヒトはそうではない。
今こうしている間にも紅い滲みはみるみる広がっていく。
どうしよう。
どうしたらいいのだろう。
このままでは、リヒトの命が失われてしまう。
そんな考えが頭をよぎった瞬間、ミアの目の奥が熱くなる。滲んだ視界ではリヒトの顔がはっきりと見えなくて、ミアは何度も瞬きをした。と、リヒトが手を伸ばし、指の背でそっと彼女の頬を拭う。そうされて初めて、ミアは自分の頬が涙で濡れていることに気付いた。
「すぐに治るとしても、刺されたらその時は痛いじゃないか。あなたがほんの一瞬でも痛い思いをするなんて、耐えられないよ」
至極当然のことのように、リヒトはそう言った。彼の中にあるのはミアのことだけ――彼が案じるのはミアのことだけなのだ。
「今、痛いわ」
応じてミアは、奥歯を食いしばる。
その言葉は嘘ではなく、蒼い顔で笑う彼を見ていると、胸が、痛くてたまらない。
「早く横になって!」
リヒトはおとなしくミアの言葉に従ったが、その顔は蒼白を通り越して土気色だ。
「すぐに傷を塞ぐから」
焦りと恐怖を押し潰して言いながら、ミアは包丁の柄に手を伸ばす。が、その手を、リヒトが掴んだ。
「リヒト? 放して。早くしないと――」
「無駄だよ」
「黙って」
「ミア、ミア、聴いて」
リヒトの、聴くまでは放さないと言わんばかりの眼差しに、ミアは歯を食いしばるようにして口をつぐんだ。
「この出血量だと、傷を塞いでももう助からない」
「何を言うの!」
声を上げたミアに、リヒトは小さく微笑んだ。
「ごめんね。ずっとあなたの傍にいると約束したのに、どうも守れそうにない」
「リヒト――」
「大丈夫。いいんだ。さっきの彼女の台詞を聞いただろう? 僕がこの世にいることを望んでいる者は、いないんだ。親ですらね、死なせるためにここに送ったようなものだし。むしろ、僕の死を望む者ばかりなんだよ。多分、最初から生まれるべきではなかったんだろうね」
途切れ途切れのその言葉を、ミアは胸を切り裂かれるような思いで受け取った。
「そんなこと、ない。私は――私は、お前に生きていて欲しい。リヒトに、傍にいて欲しい」
血を吐くような思いでそう告げ両手をきつく握り締めたミアに、リヒトは笑う。彼の笑みは歪んでいたけれど、同時に、この上なく幸せそうでもあった。
「あなたにそう言ってもらえるなんて、それだけで、生まれてきた意味があるような気がする」
リヒトはそう言い、ゆるゆると細い息をつく。
「僕はね、幼い頃は死ぬことなんて少しも怖くなかったんだ。でも、あなたと逢って、僕が死んだあと、あなたの隣に誰かが立つことを想像したら、死ねなくなった。――ああ、あなたが僕のいない生を歩んでいくのかと思うと……あなたから僕が消え去るのだと思うと、ゾッとする。死んでも、死にきれない」
ミアの手を掴んでいる彼の手に、力がこもる。それは、命の燈火が消えかけているとは思えないほどの、力だった。
その強さに、我知らず、ミアの口から呟きがこぼれ出す。
「眷属に、すれば……」
言ってしまってから、ミアは唇を噛む。
ヴァンピールになれば、リヒトは生き延びる。
けれども、ひとたびヴァンピールになってしまえば、二度と元には戻れない。
(でも……)
このまま何もしなければ、リヒトは永久に失われてしまう。
「ミア?」
かすれた声で、リヒトが彼女の名を呼んだ。
これも、もう二度と聴けなくなるのか。
「……ヴァンピールになったら二度と陽の光の下には出られないわ」
迷いを含んだミアの台詞に、リヒトがヒュッと息を呑んだ。
そして、彼は笑う。血の気が完全に失せた顔で、こともなげに。
「あなたと出逢うまで、僕は闇の中にいた。あなたに出逢えたからこの世界に光が射したんだ。僕にとって唯一の光はあなただよ。棲まうのがたとえ夜の世界だけになろうとも、月のようなあなたの輝きがあればいい」
リヒトは、不思議なほどの力強さが籠もる声で、そう言った。そうして、冷たい手でミアの手を握る。
「今、僕を生かしてくれたなら、約束するよ。僕は必ずあなたよりも一呼吸分だけ長く生きる。この先何があろうとも、絶対に、あなたを一人にはしない」
リヒトの眼差しにあるものは、切望だけだった。ただ、ミアだけを、ミアとの未来だけを望む、想いだけ。
(もういい)
ミアの中に、ストンとその一言が落ちる。
たとえ後悔する日が来ようとも、それは、その時に考えよう。
リヒトを失うか、得るか。
その二択しかないのなら、ミアの中でももう答えはとうに決まっている。
(私は、リヒトを失いたくない)
今は、自身の欲にのみ従おう。
「手を放して、リヒト」
一つだけ深く息をつき、ミアはリヒトに促した。
「ミア……?」
彼女の指示に従ったのか、あるいは、もう力が失せてしまったのか。
リヒトの手が、するりと地に落ちる。
ミアは自由になった手を持ち上げ、立てた爪を首筋に添える。そしてひと息にそれを真横に引いた。
刹那、裂けた肌から血に似て血非ざるものが溢れ出る。それが滴り落ちるに任せて、ミアはリヒトに覆い被さるように身を屈めた。
そのほとばしりは途切れることなくリヒトの頬を濡らしていく。
「飲んで」
そう告げミアは頭を傾けて、己を彼に差し出した。




