この先、ずっと
レオンハルトの大きな身体が部屋から消えると同時に、一気に部屋が静かになった。音だけでなく、漂う空気も、だ。
「リヒト、放して」
リヒトの胸を軽く押してミアが頼むと、彼は彼女を抱いたままいったん立ち上がり、ふわりと安楽椅子に下ろしてくれた。そして、リヒト自身はミアの前にひざまずく。
「お父さんのことは、残念だったね」
「それは……いいの。もう大丈夫」
目を伏せ答えたミアに、リヒトの視線が注がれる。見なくても、彼が彼女の心の内を見通そうとしているのが判った。それから逃れようと、ミアはさらに深くうつむく。
リヒトはミアが動くのを待っているようだったけれども、まだ彼女の中でも記憶と気持ちの整理がついていなかった。発する言葉が、見つからない。
短くはない間があってから、リヒトが身じろぎをする。知らず、ミアの肩に力が籠もった。
「僕は、あなたのことを怖がりも嫌いもしていないよ。ヴァンピールのことを化け物だとも、思っていない。それは、解かってくれた?」
静かな声での問いに、ミアは無言でコクリと頭だけを動かした。
リヒトは小さく息をつき、束の間ためらってから、そっと彼女の手を取る。
「彼の話を聞いて、あなたを想う僕の言葉を拒んだ理由も、少しは理解できたと思う。でも、だからと言って、この想いをなくすことはできないよ」
「……ごめんなさい」
思わず謝罪が口を衝いて出たミアに、リヒトが苦笑した。
「謝らないで。僕こそ、気持ちを押し付けて、ごめん。でも、絶対に約束する。あなたが恐れているようなことはしない。どんなにあなたを愛しても、その想いで自分を滅ぼすようなことは、しないよ。それなら、僕があなたを想い続けることを受け入れてくれるかな」
今度は、ミアもすぐには頷けなかった。
リヒトが望んでいるのは、ただ彼の想いを受け入れることだけではない。それを受け入れ、彼をヴァンピールにすることも、なのだ。
レオンハルトの話を聞いて、何故母が眷属にならなかったのか、何故父がそうしなかったのかは、理解したし、納得もした。ヒトをヴァンピールにするということそのものに対して、以前ほどの恐怖や嫌悪感もない。
けれど、それでも、ミアは迷う。
一度眷属にしてしまったら、もう二度とヒトには戻せないのだから。
ミアは唇をきつく噛み締めた。
父と母の想い。
父にとっての最善は、なんだったのだろう。
母にとっての最善は、なんだったのだろう。
二人が選んだ最後は、本当に幸せだと言えるものだったのか。
(もしもお父さまがお母さまを眷属にしていれば、今、どうなっていたの?)
今でも母は明るく微笑んでいて、そんな彼女を父が穏やかに眺めていたのだろうか――陽の射さない城の中で。
想像、できない。
父には母から太陽を奪うことができなかったのだというレオンハルトの言葉は、ストンとミアの中に納まった。
確かに、母はいつでも明るい陽の下にいる人だった。顔もはっきりとは覚えていないけれども、母を思うと春の晴れた日に咲き誇る花々が頭に思い浮かぶ。
ミアでさえそうなのだから、より長くいて、より母のことを知っていた父は、なおさらだっただろう。彼女から光を奪うことなど、どうやってもできやしなかったに違いない。それに、暗い世界に閉じ込められていたら、父が深く愛した母のあの輝きは失われてしまっていたのかもしれないとも、思う。
母は最期の最期まで温かく輝かしい人のままでいて、父は彼女と共に時を止めた。
だから、最善、ではなかったのかもしれないけれど、多分、二人にとっては限りなく最善に近い終わり方だった。
(お父さまとお母さまのことは、二人だけのもの)
彼らが何を考え、何を大事に思い、何を選択したのか。
レオンハルトが言ったように、それは、ミアには関係ないことだ。
ミアは二人の娘だけれど、いや、だからこそ、二人から離れ、自分の道を自分の考えで歩いていかなければいけない。それが、彼らの忘れ形見として、彼らが種を越えて愛し合ったことの証としてこの世に生を受けたミアの、為すべきことだった。
(二人は、私が生きていくことを望んでる)
それは、色々なものを見て、聴いて、感じて、考えて、選んで、今日と違う明日を進んでいくということだ。
二人の遺志を受けて、レオンハルトはミアを色々な場所に連れて行ってくれた。
人と交わることはできなかったけれども、ミアは、彼と一緒にたくさんの風景を見て、たくさんの香りを嗅ぎ、たくさんの音を聞いた。
海にも山にも森にも行った。
波打ち際でどこまでも続く水平線を眺めたこともあるし、高い頂から遥かな地平を見下ろしたこともある。
冷たい風も、温かな風も、この頬に感じたことがある。
緑溢れる豊かな地にも、荒涼とした砂しかない地にも、立ったことがある。
(もう一度、訪れてみたい)
レオンハルトとではなく、独りで、でもなく。
互いに大事な存在を得た父と母は、きっと、ミアもそういう相手を得ることを望んでいる――永く、共にいられる相手を。
ミアはリヒトを見た。
その相手が彼であればいいと思う。
レオンハルトと訪れた場所を、今度は、リヒトと訪れてみたい。
「約束、できる?」
唐突に言ったミアに、リヒトが目をしばたたかせる。
「え?」
「自分を大事にするって、約束、してくれる?」
リヒトはパッと顔を輝かせ、深く頷く。
「するよ。僕は、あなたのためにこの身を守るから。あなたがいてくれる限り、僕は僕を大事にする」
ミアの手を握る力が、強まった。
「僕は、可能な限りあなたと共にありたい。叶うことならあなたと同じものになって、あなたの長い時に寄り添っていきたいんだ」
迷いのない真っ直ぐな眼差しを向けてくるリヒトを、ミアは見つめ返す。
(私は、私の為に、リヒトといたい)
こんなふうに思ったのはリヒトが初めてで、多分、この気持ちはこれからもずっと変わらない。
それは、確信が持てる。
(でも……)
旅の最中に、ヴァンピールの特性についてはレオンハルトから色々と教えられた。城にいた頃はまだミアが幼かったためか、父が教えてくれなかったようなことも、旅に出てからたくさん知った。
ヴァンピールは血を飲めば魔力が増すけれど、生きるために必須ではないということ。
多種と混ざったヴァンピールの肉体は、基本的にヴァンピールではない方の種のものとなること。
生粋のヴァンピールはある程度の肉体年齢に達すると完全な不老不死になること。
対して混ざりのヴァンピールは、ヒトと比べて非常にゆっくりとではあるものの、年を経ていくということ。
混ざりのヴァンピールが作った眷属の肉体は生粋のヴァンピールのものとなり、陽の光を浴びられなくなり、不老になるということ。
主となるヴァンピールと従となる眷属とはつながりができ、ある程度の感覚と命を共有することになるということ。
リヒトを眷属にすれば、ミアは彼に対する責任と、彼自身を手に入れる。
この先ずっと、リヒトといられるようになる。
対して、リヒトがヴァンピールになって得られることは、何だろう。
確かに、今の彼は、長きにわたりミアと共に在ることを望んでいる。それが唯一で至上の望みだと、彼自身は思っている。
けれども実際、それは彼にとって、どれほどの益になるというのだろう。
リヒトは、ヴァンピールの時がどれほど永いものなのか、知らない。
(百年後、二百年後、五百年後にも、同じ気持ちでいられる……? ――いてくれるの?)
判らない。
ミアの中には、リヒトが彼女を慕うのは彼の周りに他にヒトがいなかったからだという思いがどうしても残ってしまう。特にこの屋敷で過ごすようになってからは、いっそう強く、そう思うようになった。ここでも、彼にはミアしかいなかったから。
リヒトはここから出ることがなく、ここにいるのはたった四人の使用人だけ。その四人も、ほとんど彼と言葉を交わすことすらしない。
そんな状況でヴァンピールになったとして、長い時を過ごすうちにミア以外の誰かを知ったら、その時彼は、ヒトではない身を嘆くことにはならないだろうか。ミアのためにヴァンピールになって、ミア以上に大事に思う人ができてしまったら……?
リヒトが他の誰かにあの優しい眼差しを向ける様を心に思い浮かべると妙に気持ちが沈んだが、それは充分にあり得ることで。
リヒトのミアへの想いを疑っているわけではないけれど、彼は、あまりに経験が足りていないとミアは思うのだ。
何も知らない彼が、正しい選択を、後悔しない選択を、できるとは思えない。
(だから、やっぱり――)
ミアは顔を上げる。
そうしてリヒトの目を見つめ、自分の意思を告げた。