唯一無二の宝物
ミアの頭は、レオンハルトから聞かされた話を受け止めきれてはいなかった。
(お父さまが、もういない……?)
ぼんやりと、頭の中で呟いた。が、実感が湧かない。
この広い世界のどこかには、いると思っていた。互いに長い生を持つから、いつかまた、会えるものだと思っていた。
(でも、そうじゃない)
父は、この世にいないのだ。母と同じように。
――母親と同じ瞳の色をしている。
レオンハルトのその言葉が耳によみがえり、ミアはふらりと手を上げ目元に触れた。
(お母さまが亡くなってから、レオンがそんなことを言うの、初めて聞いた)
思い返すと、そもそも、レオンハルトとの旅の中で両親のことを思い出すことがほとんどなかったのだ。母の――死というものを理解してからは、特に。
(考えてみれば、それって不自然なことだったんだ)
レオンハルトは両親が親しくしていた人だ。思い出話だって、たくさんある。ミアが生まれる前のものも、生まれた後のことも。いくらだって、あったはず。
にも拘らず、二人のことを振り返ろうともしなかった。
それは、どうしてか。
ミアは唇を噛む。
(私が、お父さまのことを箱に入れて閉じ込めようとしていたから)
父のことを、レオンハルトはミアに思い出させまいとして、多分、ミアも、思い出すまいとしていた。そうしようという意識はなくとも、多分、そうしていた。
レオンハルトに刷り込まれた記憶をミア自身が信じていたかったから、きっと、いつの間にかそれを真実としてしまっていたのだ。
(お父さまも、もういない)
もう、二度と会えない。母だけでなく、父とも。
「また会えるって、思ってたのに」
声に出して呟くことでその事実が胸に迫り、視界が滲んだ。
「ミア」
リヒトに名前を呼ばれ、顔を上げた拍子に頬を雫が転げ落ちていく。
「ミア……」
彼は苦しげに再び彼女の名前を呼んで、一瞬の逡巡の後、手を伸ばしてくる。
ミアは安楽椅子から引き下ろされ、リヒトの膝の上で、彼の腕の中に包まれた。
「リヒト」
かすれた声で名前を囁くと、応えるように力が増した。
何も言わずに抱き締めてくれるリヒトの胸に向けてミアは小さな吐息を一つこぼし、彼の肩に頭を預ける。そっと触れてきたリヒトの手が彼女の耳ごと覆って、全ての音を遮断した。
リヒトは、いつだって、ミアが壊れやすい宝物か何かのように触れる。優しく、愛おしげに。今も、髪から背中をゆっくりと撫で下ろしてくれる手が、心地良かった。
繰り返し与えられる穏やかな慰撫に、レオンハルトから与えられた衝撃が次第に和らいでくる。彼がひと撫でするたびに、ミアの中の悲しみが薄らいで、代わりに受容が染み込んでいった。
この世界に、父はもういない。
(多分、本当は、最初から解かっていたのよ)
ただ、真実を拒絶していただけで。
ミアは自嘲の笑みを漏らす。
微かなその声が、レオンハルトにも届いたらしい。
「落ち着いたなら、そろそろいいか? もう少し言いたいことが――っていうか、本題に入りたいんだが」
低い声にミアが我に返るのと、リヒトの手が止まるのとは同時のことだった。そして、応えたのはリヒトの方が速い。
「ああ、すみません、あなたのことをすっかり失念していて」
リヒトの声はいつもと変わらず朗らかなものだったけれども、微妙な棘が生えているように感じたのは、ミアの気のせいか。
一方、それを向けられた当のレオンハルトは、肩をすくめる。
「忘れてたっつうか、消し去ってたっつうか。まあいいんだけどよ」
ぼやいたレオンハルトはリヒトの腕の中にいるミアを真っ直ぐに見つめてくる。
「さて、ミア。お前はヴォルフに、どうしてローゼマリーを眷属にしなかったのか、その理由を訊きたかったんだろ?」
ミアは、声は出さずにただ首肯する。
レオンハルトはがっしりとした太腿の上に肘をつき、ミアの方へ身を乗り出すようにして言葉を継ぐ。
「お前は、どうしてあいつらがそれを選ばなかったんだと思う?」
「私?」
「ああ」
ジッと見つめてくるレオンハルトから目を逸らし、ミアはためらいがちに答える。
「それは、だから……ヒトにとってヴァンピールは『化け物』だから……」
「ミア!」
鋭い声に、ミアはビクリと肩をはねさせた。
その叱責は離れた場所から届けられたものではない。すぐ傍からだ。
見上げると、憤りで炯々と光るリヒトの眼差しがあった。
「リヒト……」
「ヴァンピールは化け物なんかじゃない」
「でも――」
「ミア。あなたはヴァンピールだ。でも、化け物じゃない。だから、ヴァンピールは化け物じゃない。二度と、ミア自身がそんなことを言わないで。あなたは化け物とは程遠い存在なんだから」
淡々とした口調は、深みで様々なものが渦巻く凍てついた湖を思わせる。
リヒトがミアに対してこんな言い方をするのは、初めてだった。
「ごめんなさい……」
気圧され思わずミアが謝罪を口にすると、彼がフッと表情を和らげる。そうして片手で彼女の頬を包んでうつむけ気味になっていた顔を上げさせると、額と額を触れ合わせた。
「あなたは僕にとって唯一無二で至上の、宝物なんだ。あなたが自分を否定するのは、あなたをかけがえのないものだと思っている僕をも否定するようなものだと思って」
そう囁いて、リヒトはミアをふわりと抱き締める。
そんなたいしたものじゃないのに、と思いながらも、そう声に出したらまた怒られそうな気がしたから、ミアは抗わずに頷いた。リヒトは満足そうに小さく笑って、彼女の頭に口づける。
と、そこに、咳払いが割って入った。
「失礼。戻ってきてくれるかな?」
「!」
ミアはパッと顔を上げたけれども、彼女をガッチリと抱きすくめているリヒトの腕はほんのわずかも緩まない。仕方がないので、首を捻って肩越しにレオンハルトに目を向ける。彼は微妙に面白くなさそうな視線をミアに――ではなくリヒトに、注いでいた。
「頼むから、いちゃつくなら俺の目が届かないところでやってくれないかな? 腹が立つから」
「ああ、すみません。でも、悲しんでいる彼女を放置しておくことができなくて」
言外に、あなたならできるとでも? と続いているような口調だったせいか、レオンハルトがギリリと奥歯を軋らせた。長年ミアの保護者をしてきた彼にとったら、侮辱に近い言葉だったに違いない。
「そりゃ、ありがとうよ」
多分、ありがたいとは欠片も思っておらずにレオンハルトは言ったのだろう。少なくとも、ミアにはそう聞こえた。
が、リヒトはにこりと笑ってミアの髪に指を潜らせ、彼女の頭を自分の胸に引き寄せながら答える。
「いえ、どういたしまして」
横目でミアがレオンハルトの様子を窺うと、今にも獣化しそうな顔をしている。
「レオン」
まさかこんなところで暴れ出しはしないだろうとは思ったけれども、少しばかり心配になって名前を呼ぶと彼はグッと息を詰め、それからゆるゆると吐き出した。
「ッたく、母娘二代に渡って厄介な奴に惚れられやがって。ってか、あいつよりもタチが悪いだろ、そいつはよ」
ブツブツとこぼしているレオンハルトに、ミアは抗議する。
「リヒトはいい子よ。『タチが悪』くなんてないわ」
彼女のその台詞にリヒトからはまた口づけが降ってきて、レオンハルトはといえば、心底嫌そうに顔をしかめた。




