月華の妖精②
メイドたちに限らず、自分の死を望むものがいることをリヒトは知っていた。
この国は長子継承を取っており、よほどのことがない限り、リヒトが次の当主になる。多少病弱なくらいではその継承権は揺らがない。
だから、彼の身に『よほどのこと』が起こることを期待されている――両親を筆頭として。
そんなの、知ったことかとリヒトは思う。
廊下を歩くリヒトの口元には、七歳という年齢に似つかわしくない倦んだ冷笑が浮かんでいた。
リヒトの中に死を疎む思いはないが、彼らの為に死んでやる気は更にない。
そんな謙虚さも慈悲深さも、とうに捨て去っていた。
何かあっても医師を呼ぶこともままならないこの森の屋敷にリヒトを送り込んだのは、さっさと継承権を弟に引き継がせたいという思惑もあるのだろう。
しかし、その見込みは外れたようだ。
家政婦のザーラと外回りの仕事をする壮年の男ハンス、それにコロコロと数年で入れ替わるメイドが二人。
今のリヒトの周りにいる者は、それだけだ。
都と違って空気が良く、接する人間も限られた数名だけ、とあって、リヒトが臥せることは激減した。
なかなか届かぬ朗報に、きっと都の両親はやきもきしているだろう。
そして、改善したのは環境だけではない。
また病気になったのかと悲嘆に暮れる両親を目の当たりにすることもなくなって、都の本宅にいた頃よりも居心地が良くなったのは確かだが、代わりに耳にするようになったのは先ほどのような遣り取りだ。
『どうして私たちがこんなところに』
『こんな何もないところはうんざりだ』
『早く都に帰りたい』
だいたい、言っている内容はいつも似たり寄ったりなもので、逆に、良く飽きもせず同じことを繰り返せるものだとリヒトは思う。
(まあ、気持ちは解るけど)
ふう、と溜めた息を吹くと、白い靄となって目の前を漂った。
メイドたちも、都でもかなりの地位に就いていてかなりの金がある主のもとで働けることになって、色々と期待していたに違いない。それがこんな森の奥に送り込まれては、うっ憤もたまるというものだろう。
彼女たちはリヒトの前では笑顔でいるが、その下にあるものに気付かない彼ではない。いっそ、下手な愛想など振ってくれない方が、まだ気が楽というものだ。
齢七つにして、結局、死んだ方が楽かもな、という考えに戻りつつ、リヒトは目指す場所もなく森の中をそぞろ歩く。
季節は晩秋、陽が沈むのは早く、夜ともなるとかなりの冷え込みになる。
歩き疲れたリヒトはゼイゼイと息を切らしながら落ち葉が敷き詰められた地面にごろりと横になった。一晩くらいのことでは屋敷の中に彼がいないことに気付く者はいないだろう。
梢の隙間から満月が姿を現し、ジリジリと動いていく様を見守る。
「綺麗、だな」
リヒトは、夜空に笑いかけた。
ヒトは体温が失われれば命も失うのだと、本で読んだ。試しに胸に手を当ててみると、いつもよりもずいぶんと鼓動がゆっくりとしているように感じられた。
煌々と銀の光を注いでくれる望月は完璧な真円で、あんなに美しいものに看取られながら死んでいくのであれば、それもまあいいかなとも思う。彼の死を望む者たちに応じてやる義理はないが、執着するに値するほどの生でもない。
「こうしていれば、死ぬのかな」
当然周囲に誰もいないはずなので、リヒトのその呟きは単なる独り言になるはずだった。
が。
「それでいいの?」
リンと、銀の鈴が打ち振るわれたような声。
それが、何の前触れもなく、冷えた空気の中に響き渡った。
リヒトは横たわったまま――起き上がる力はもうなかったので――首を上下左右に振って声の主を探す。
探して、目にした瞬間、息を呑んだ。
なんて、綺麗なのだろう。
まず目に入ったのは、流れるような銀色の髪だった。中天に浮かぶ満月の光を弾いて、まるでそれ自身が輝きを放っているかのように見える。目は深い青に見えるけれども、明るい中ではまた違うのかもしれない。
年の頃は、リヒトよりも十かそこら上というところか。大人にはなりきっていない、さりとて、子どもとは言えない、そんな感じ。華奢な肢体は儚げで、もろい飴細工を思わせる。
少し眦が上がり気味の、切れ長の目。
スッと通った鼻筋。
小作りだけれどもふっくらとした唇。
それらが絶妙な配置で玲瓏たる美しさを作り出していた。そう、言うなれば、真冬の冷え切った空の中で清く輝く、月のような美しさを。
「あなたは……月の妖精ですか?」
思わず、リヒトはそう問いかけていた。
こんなに美しい人は、絶対に、ヒトではないと思ったから。
それに、月はその輝きが強ければ周囲の星をかき消してしまう。暗い森の中で独り佇む彼女の孤高な姿は、煌々と夜空に輝く望月によく似ていると思ったのだ。
だが、心酔のあまり口から転げ出してしまった彼の言葉に、少女は微かに首を傾げる。
眉をひそめたその表情もとても可憐で美しいものだったけれども、リヒトは自分が初手をしくじったことを悟った。
(だけど、他に、どういえば――?)
判らない。
時に大人たちからは小賢しいと称されるリヒトの頭は、この時、ほぼ完全にその活動を止めていたのだ。