父の真実
話すよ、とレオンハルトが言ってから、また少しの沈黙があった。
リヒトは、安楽椅子の中に身を沈めていても落ち着かなそうに唇を噛んでいるミアの隣にしゃがみ込む。手を差し出すと、彼女はホッとしたように表情を緩め、そこに自分の手を滑り込ませてきた。
華奢なミアの手は、微かに震えている。
リヒトはそれを持ち上げ、彼の手越しに口づけた。心なしか、少し、震えがおさまったように感じる。
レオンハルトはそんな二人を微妙に面白くなさそうな、それでいて、どこか安堵しているような眼差しで見た。少し前の状況からしても、『父親代わり』の彼にとっては複雑な心境なのだろう。
それからややして、レオンハルトが深く息をついた。彼はいったん下げた頭を勢い良く上げ、ミアを見る。
「母親が――ローゼマリーが死んだことは、理解してるんだろう?」
「それは……ええ」
頷いたミアに、レオンハルトの眉間にしわが寄った。
「じゃあ、ヴォルフのことは?」
「お父さま? お父さまは、旅に出たのでしょう?」
「それな、嘘なんだ」
「え?」
「父親が傷心の旅に出たってやつ」
さっくりと告げられたその台詞に、ミアは困惑しきった顔をしている。
「ウソって、どういう意味?」
「言葉通りだよ」
気まずそうに答えてから、レオンハルトが苦々しいため息をこぼした。
「ローゼマリーは最期の方はもうだいぶ悪くなっていたから、お前もある程度の覚悟ができてたんだろうな。死んだことを説明したら、まあ、納得はしてなかっただろうが、取り敢えず受け入れられたように見えたよ、確かに。でも、ヴォルフの方はな……」
そこで言葉を切ったレオンハルトは、微かに目を細めてミアを見る。
「お前は、ローゼマリーの死を、二度知ったんだ」
「二回?」
戸惑う彼女に、レオンハルトがどこかが痛むかのように顔をしかめた。
「一度目は、あいつらが死んですぐだ。ローゼマリーが息を引き取る間際にお前を呼びに行った。で、遺体にも会わせた」
「違う。お会いしてない。違うわ。寝て、起きたらもう逝ってしまわれていたのよ。レオンは、もう埋葬したって言って、私は会わせてもらえなかった」
「そうじゃない。ローゼマリーが死んで、お前は何日も部屋に閉じこもって出てこなかったんだ。で、ある日突然普通に起きてきたと思ったら、二人はどこだと俺に訊いてきたんだよ」
リヒトの手を、ミアがキュッと握り締めてくる。彼女自身はそうしていることに気が付いていないようで、その眼は真っ直ぐにレオンハルトに向けられていた。
「私、そんなの知らない」
ミアの声は、震えている。
迷子の子どものような心細げなその姿に、リヒトは彼女を抱き締めたくてならなくなる。
だが、リヒトは、そうする代わりにもう片方の手をミアの手を包む手に重ねた。
食い入るようなミアの視線を受け止めながら、レオンハルトは息をつく。
「俺が、忘れたままにさせたんだ。その方が、傷が浅いと思って」
そう言って、彼は苦笑した。
「だが、失敗だったな。確かに表面的には落ち着いたが、たちの悪い傷は残っちまったようだからよ」
自嘲混じりのその台詞に、リヒトは眉根を寄せた。
「たちの悪い、傷?」
「ああ。現実逃避ってやつな。まあとにかく俺は、なんか妙だなとは思いつつ、ローゼマリーが死んだことを教えた」
確かめるようにミアを見たレオンハルトに、彼女は小さく頷く。
「で、次に、ヴォルフのことを確認しようとした。ローゼマリーのことは解かってくれた――解かっていたようだったから、あいつのことも大丈夫だろうと思ってよ。だが、お前は、ケロッと『お父さまはどこ?』と訊いてきたんだよ」
ミアの手の震えが強くなる。元からひんやりとしている指先が、氷のように冷たくなっていた。
「お父さまは、どこ……? どこに、いるの……?」
どこかにはいる。
そう信じている、いや、信じようとしている、声だった。
大きく見開かれたミアの眼差しを受けて、レオンハルトが静かにかぶりを振る。
「あいつも、もういないよ。ローゼマリーの後を追って、灰になった」
「灰……」
その言葉を呟いたミアは、次の瞬間ハッと息を呑む。その眼差しは、遥か遠いものを探っているかのように、焦点が定まっていない。
「ミア?」
そっとリヒトが声をかけると、彼女はまとわりつくものを払いのけようとするかのごとく銀色の髪を広げて何度も何度も頭を振った。
「違う。違うわ。アレは違う。アレはそうじゃない。レオンは、お父さまは旅に出たって――」
悲痛な、声だった。
だが、レオンハルトはそれを遮りきっぱりと告げる。
「それは、嘘だ。俺はあの時嘘をついた」
「レオンはそんなことしない。レオンは、私に嘘をついたことなんて、ないわ」
「あれ以来、な。だが、あの時はお前を騙した」
身を強張らせたミアに、レオンハルトがすまなかったと頭を下げる。
「やっと部屋から出てきたと思ったらお前の髪はそんなことになっちまってるし、あいつのことを話したらどうなるか、怖かったんだよ。取り敢えず旅に出たことにしてごまかして、追い追い、時間をかけて本当のことを教えるつもりで、な。そうこうするうちに、お前はあいつのことを口に出さなくなったし、もうそのままでいいか、と思っちまったんだよな」
あれほど傲然としていた男が、今は悄然としていた。
ミアを見れば、頼れる保護者のそんな様子にどう応じたら良いのか判断に困っているようだった。二百年を経て明かされたすでに父がこの世にいないという事実よりも、打ちひしがれているレオンハルトの様子の方が、衝撃が強いらしい。
「レオン……」
呼んだきり、口ごもる。目だけを上げてミアを見たレオンハルトもまた、彼女からの言葉を待っているようだった。
リヒトもどちらかがまた話を切り出すのを待ってはみたが、どうも、無理そうだ。
「話を整理すると、ミアのお母さんはヒトで寿命を迎え、ヴァンピールであるお父さんも彼女の後を追ってしまった、でいいんですよね?」
「まあ、そういうことだ。普通にしていたらヴァンピールは死なねぇが、唯一、日光を浴びると灰になる。あいつはローゼマリーを見送って、そのまま朝日を浴びたんだ。一瞬たりとも待たなかったよ。俺にもローゼマリーにもそんなことを言ったことはなかったけどよ、多分、そうするととうに決めてたんだろうな」
そう言って、レオンハルトは渋面になった。
「ヴォルフって男はべらぼうに強いが滅茶苦茶弱い奴でもあってな、ローゼマリーに逢うまでは廃人同然だったよ。あいつとは五百年近い付き合いでな、気が向いたら会いに行ってたんだけどよ、いつ行っても同じ椅子に同じ姿勢で座ってやがるんだ。多分、放って置いたら五年十年どころか、百年でもピクリとも動かずにいたんじゃねぇかな。本気で、ただ在るだけって感じだったよ」
レオンハルトの口から、呆れと感心が入り混じったようなため息がこぼれる。
「そんな奴が、ローゼマリーと……ミアの母親と逢って、ガラリと変わっちまったんだ。きっと、ローゼマリーと逢ったことで、初めてあいつは生きるってことを知ったんだろうよ」
「お母さまとお逢いになって、初めて……」
呟いたミアが、キュッとリヒトの手を握る。レオンハルトはそんなミアにふと微笑んでから、再び口を開いた。
「凍り付いていたあいつの時間を融かしたのは、ローゼマリーだった。だから、彼女がいない世界では生きられなくなったんだ。まさに、彼女が世界の中心ってやつでな。ローゼマリーが逝っちまったその場で、陽の光を浴びやがった」
レオンハルトの台詞がリヒトの胸に突き刺さる。
ミアの父親の在りようは、リヒトの在りようそのものではないか。
彼はそっと横目でミアを窺った。
『彼女が世界の中心』
リヒトにとってのミアが、そうだった。
彼女にも、散々そう伝えてきた。
(だから、ミアは僕を拒んだのか……?)
――ミアに深い傷を残した父に、被ったから?
ミアを求める想いを露わにし過ぎたから、彼女を不安にさせてしまったのだろうか。
父の死をミアは覚えていなかったが、もしかしたら、妻への愛に殉じた彼のことが記憶の底に刻まれていたのかもしれない。
歯を食いしばったリヒトに、レオンハルトの台詞が届く。
「まあ、ミアを手放すだけの分別があったってことでもあるんだろうけどな」
その言葉は、聞き捨てならなかった。
「分別? 母親を亡くしたばかりの娘を見捨てることのどこに分別とやらがあるというんです?」
自分なら、愛した人のほんの一部でもこの世に残っているならば、何が何でもそれをこの手で守るだろう。
自らそれを放棄し誰かに委ねるなど、絶対にしない。
穏やかとは言い難い声でのリヒトの疑問に、しかし、レオンハルトが苦笑する。
「まあ、そう言ってくれるなって。あいつにもあいつなりに思うところがあったんだからよ」
「思うところ?」
リヒトは冷やかにそう返した。
ミアの父親は彼女を置いて死んだ、その事実が彼の考えを端的に表していると思うが。
「あいつは、ローゼマリーのこともミアのことも、大事にしていたよ。この世で何よりも、な。ミアに自分の血を飲ませたりもしてたぜ?」
レオンハルトのその台詞にいち早く反応したのは、ミアの方だ。
「お父さまの、血? 私、血を飲んだことがあったの?」
「ああ、覚えてないか。お前、定期的にあいつの血を飲まされていたぞ? ヴァンピールにとって吸血は必須じゃないけどな、飲まないと魔力が保てない。で、ヒトの血よりもヴァンピールの血の方が、段違いに魔力は強くなるんだよ。だから、ヴォルフは自分の血をお前に飲ませてた。ちょっとやそっとじゃどうともならんようにってな。……まあ、そもそも城から出そうとしなかったし、どうともなりようがなかったけどな」
最後はボソボソと、彼の口の中で不明瞭に消えていった。
「レオン?」
「ん? ああ、こっちの話。今はお前、全然血を飲んでないだろ? だから魔力なんか空っぽだし、ただ年を取らねぇ、死なねぇってだけの女の子だな。目も、あの頃は父親と同じ色だったが、今は完全にローゼマリーと一緒だな」
ミアの目を見つめてそう言ったレオンハルトの眼差しには、昔を懐かしむような色が浮かんでいた。




