守護者登場
「あなたは、僕のものなんだ。僕だけの、ものなんだ。絶対に、どこにもやらない」
がむしゃらに抱き締めて喚いてみても、それはリヒトの独りよがりに過ぎなかった。
彼自身、それを良く解かっている。
ミアは、リヒトのものにはならない。
ミアはミアのもので、けっして、誰のものにもならないのだ。
――頭ではそれが解かっていても、心が従わない。リヒトの心は、ミアの全てを我が物にしたいと声高に叫んでいた。
彼女の身も心も過去も現在も未来も。
その全てが欲しい、と。
十年間をここで共に過ごし、ミアの気持ちも彼に傾きつつあるように思えることが、時折あった。
だが、結局ミアはここを――リヒトの元を去ろうとしているのだ。彼女がその声で、明言したのだ。
(鎖につないで鳥籠に閉じ込めてしまえば、せめてこの身体だけでも僕のものになるのか……?)
リヒトは、暗い気持ちでそんなことを考え、彼女を捕える腕に力を籠める。
我欲に満ちたこの思いを遂げてしまったら、ミアの心は二度とこの手に戻らない。万が一の可能性も、消してしまう。
(それでも――)
どうせ失うものならば。
リヒトの思考は先の無い袋小路へと流されそうになり、ギリギリのところで辛うじて生きている理性がそれを押し止める。しかし、リヒトの中では着実に欲が理性を凌駕しつつあった。
思いついた一つの仮説。
ミアと同じものになるために、ミアの血を飲む。
それは正しい方法なのだと、リヒトの台詞を聞いたときのミアの表情で、確信した。
ミアは非力だ。
力づくで抑え込み、その細い首に食らい付けば望みは叶う――ミアがどれだけ拒もうとも。
大波に翻弄される小舟さながらに揺らぐリヒトの背中に、そっと小さな手が回される。羽根が触れるような柔らかな感触でも、間違いようがない。ミアの手が彼の背中に置かれていた。
「ミア……?」
もしかして、都合のいい白昼夢を見ているのだろうか。
リヒトは半信半疑で肩を強張らせる。
だが、夢でも妄想でもなかった。
確かにミアが、ミアの方から、この身を抱き締めてくれている。
実感してもまだ信じられなくて、一瞬、腕の力が抜けかけた。が、慌てて力を入れ直す。
ミアは、華奢な両腕を精一杯伸ばして、リヒトのことを包み込もうとしてくれていた。
この抱擁は、どういう意味を持つのだろう。
(別れの為? それとも……)
惑うリヒトの名を、ミアが呼ぶ。
「リヒト――」
ミアが何かを言おうとしていることに気付き、リヒトは彼女の顔を見ようと腕の力を緩めかけた、が。
刹那。
リヒトは全く予期していなかった力に項を掴まれグイと真上に引き上げられる。
「おいおい、これはどういうことだよ?」
耳に心地良いミアの澄んだ声の代わりに響いてきたのは、剣呑さが漲る低い声だ。
この声には、覚えがある。
これは――
「レオン」
リヒトを捕えた手の持ち主の名前を、彼の代わりにミアが呼んだ。
多分、リヒトの陰に隠れていたミアの姿が目に入ったのだろう。項を掴んでいる手に、首をねじ切られんばかりの力が籠もる。
苦痛で思わず顔を歪めたリヒトに、ミアが慌てて立ち上がった。
「レオン、やめて、放して! リヒトが死んじゃう!」
切羽詰まったその声から一拍遅れて、リヒトは無造作に部屋の隅に投げ捨てられる。
「グッ」
強かに背中を壁に打ち付けて、束の間息が止まった。呻くこともできないリヒトのもとに、レオンハルトの上着を巻き付けられたミアが駆け寄ってくる。
「リヒト、大丈夫?」
ミアはリヒトの前で両手を突いて、前かがみで喘ぐ彼を覗き込んでくる。
「だ、いじょう、ぶ」
顔を上げ、かろうじて笑みを浮かべて見せると、ミアはホッとしたように表情を緩めた。次いで背後を振り返り、声を上げる。
「レオン、ひどいよ!」
「酷いって、お前、その恰好はそいつのせいなんだろ?」
「リヒトは私にひどいことなんてしないもの!」
猛然と食って掛かるミアに、レオンハルトがたじろいでいる。仔猫に唸られ尻尾を下げている大型犬の絵が脳裏に浮かび、リヒトは危ういところで笑いをかみ殺した。
そんな彼を蚊帳の外に置いて、二人はまだ遣り合っている。
「リヒトはヒトなんだから! 簡単に怪我するし、簡単には治らないし、ちょっとしたことで死んでしまうのよ!?」
「一応、力加減はしたさ」
「でも、こんなに苦しそうだもの」
「そうは言っても、お前……判ったよ。そう怒るなって。――悪かったな」
最後の一言はリヒトに向けてのものだが、明らかに心は籠もっていない。もっとも、ミアの保護者を自任しているレオンハルトの気持ちは良く解かるので、リヒトはその形ばかりの謝罪を黙って受け入れた。
しかし、この応酬の意味するところは何なのだろう。
盗み聞いた森の中での会話では、ミアはリヒトよりもレオンハルトを選んでいたはず。彼女はリヒトから離れ、レオンハルトと共に行こうとしていたはずだ。
リヒトはそう確信していた。
(だが、今の遣り取りはどうだ?)
確信が、揺らぐ。
(もしかして、僕が耳にしたこと以外に、何かあるのか?)
リヒトを置いていくという選択肢以外の、何かが。
眉をひそめるリヒトをよそに、レオンハルトはいかにも面白くなさそうな面構えで寝台にドカリと腰を下ろした。
「ッたく」
舌打ち混じりに漏らし、彼はバリバリと頭を掻く。
「まあ、お前もいつまでも子どもじゃねぇんだもんな」
そう言った後レオンハルトは膝の間に両腕を垂らし、頭を下げた。しばしそうしていた後、何かを振り切るように顔を上げる。
「取り敢えず、今の俺の話はそれじゃねぇ。本題に入るとするか」
ミアやリヒトではなく自分自身に言い含めようとしているような声で低く呟いたレオンハルトは、懐から銀色の懐中時計を取り出した。
「これやるよ」
差し出した相手はミアだ。
彼女はそれを受け取り、眉根を寄せる。
「……時計? 別に、必要ないわ」
「いいから開けてみろよ」
促され、ミアは応じた。中を見て、浮かべていた怪訝そうな顔付きがみるみる変わっていく。
「これ……」
青い瞳が微かに潤むのを目にして、リヒトも彼女の手の中を覗き込んだ。
懐中時計の蓋の内側には精緻な細密画がはめ込まれている。描かれているのは、レオンハルトのものよりも赤みを帯びた金髪をした女性と、黒髪の男性。見ているだけでも心が温かくなるような笑顔を浮かべたその女性は、同じ髪の色をした赤子を抱いている。
そして、二人を見つめる男性の面差しは、ミアと良く似ていた。
パッと顔を上げてもの問いたげにレオンハルトを見つめたミアに、彼が頷く。
「もうあんまり覚えてなかっただろ? 赤ん坊ん時のお前と、あいつらだよ。俺が描いたんだ」
「これ、私――? でも、この赤ちゃん、髪の色が……」
リヒトも同じ疑問を抱いた。
目の前にあるミアの髪は、寒空に浮かぶ月光を紡いだような綺麗な銀色だ。
「金色、だろ? お前の髪は、元々その色だったさ。目は父親譲りの紅でな」
言われて、リヒトは吸血の時だけに現れるミアの瞳の色を思い出した。深みのある、紅をしていたあの瞳を。
「何があったんです?」
眉根を寄せて問うたリヒトに、レオンハルトが答える。
「それを、話すよ。これから」
そう言いながらも、明らかにそれを喜んではいないことがその声と表情からありありと伝わってきた。




