彼女だけが在ればいい②
胸の前で両手を組み、縋り付くような眼差しを向けてくるアデーレを、リヒトは冷ややかに見返す。
「お慕い、ね。だから僕が十七になって親の財産を分与されたら孕む予定だったんだ? そうすれば、玉の輿で一生安泰、だったっけ?」
お粗末な芝居を嗤う気にもなれずにうんざりした声でそう投げると、アデーレの顔がサッと強張った。
「ッ!」
醜く歪んだその面を、瞬時に憐れを誘うものに戻したのは流石だ。
「どうして、それを……」
震える声での問いに、リヒトは肩をすくめる。
「そういう内輪の話は、もっと密やかにするべきだね。せめて、扉を閉めるとか」
あの時アデーレが話していた相手は年下の同僚で、廊下の角を曲がってすぐに聞こえてくるほどの声だった。恐らく、アデーレはリヒトをすっかり手中に収めたつもりになっていて、有頂天で警戒心が薄れていたに違いない。
あれほど熱のない手で触れられてそんなふうに勘違いできるとは、アデーレはよほど自分の身体に自信があったのだろう。
もっとも、さっぱり進展しない関係に、そう日を経ぬうちに苛立ちを隠せなくなってはいたが。
リヒトの面前で、アデーレの顔を、様々なものが目まぐるしくよぎっていく。
どう取り繕おうか、どうすればこの場を挽回できるのか、さながら水に落ちた鼠のごとく、必死で模索しているのだろう。
そして彼女はグッと奥歯を食いしばり、態度を一変させる。
「あれは、そう、つい、話を大きくしてしまって……」
形勢を立て直そうとあからさまな媚を含んだ笑みを浮かべたアデーレに、リヒトは片手を振って答える。
「別に構わない。気にしていないよ」
リヒトが見せたのは完全な無関心だ。『気にしていない』は過去の台詞にだけでなく、今のアデーレの存在にもかけている。それが伝わったのか、彼女は一瞬奥歯を食いしばった。
「酔狂が過ぎますわ。あんな化け物なんかより、私の方がよほど――」
刹那、スゥッとリヒトの中が冷えた。彼の眼差しを受けてアデーレがヒッと息を呑む。
「……化け物……? それは、あのひとのこと?」
その言葉は、リヒトの前では――いや、この屋敷の中では、決して口にしてはならないものだった。
すがめた目をヒタとアデーレに据えると、彼女の顔からサッと血の気が引く。
「あ……あの……」
「二度と、あのひとのことをそう呼ぶな。お前など、彼女と同じ場の空気を吸えるほどの価値もない」
氷の刃もかくやという声で告げたリヒトの前で、アデーレが唇を震わせる。気圧されたように一歩後ずさり、次いで、キッと眦を釣り上げた。
「何よ……何よ! あんたなんか、親にも捨てられたくせに! 親はあんたがさっさとここで死んでしまえばいいと思ってたのよ!」
彼女にとっては取って置きの隠し玉だったようだが、そんなもの、リヒトにとって綿毛ほどの威力もない。何しろ、彼の方にも肉親に対する情というものが皆無なのだから。
「そうらしいね」
肩をすくめたリヒトに、アデーレはポカンと口を開けている。
「知って、いたの……?」
「ああ、そうだね、十の誕生日を迎えた時には、もう知っていたかな。君たちは僕がすぐに死ぬと思ったから、こんな田舎までついてきたんだっけ? 昔、さんざん愚痴っていたよね。一年かそこら我慢すればいいと言われてたのに! って。当てが外れて残念だったね。で、実際に僕が死んだ暁には、口止め料も兼ねて莫大な報酬が約束されていたんだろう?」
「なんで、そんなことも、知って……」
アデーレの顔から一瞬血の気が引き、次いで、また紅潮した。
リヒトはゆったりと椅子に身を預け、腹の前で両手を組む。
「君は僕が金を手に入れる十七まで色々と待つ気だったみたいだけど、その三年前には親から受け取る予定の金額以上の財をこの手で築いていたよ。だから、もうだいぶ前から、親の金は受け取っていない」
「え?」
「いくつか投資に手を出したら面白いように収益があってね。で、その関係で情報収集するから、他にもあれこれ都の話が入ってくるんだ。僕の葬式が盛大に開かれたっていう話も、その中の一つ。ここ数年は人も雇って専属で色々探ってもらってる。ここに引きこもっているからと言って、何も知らないというわけではないんだよ」
そう言って、机の上の手紙をトントンと指で叩いた。
「僕はあの家を継ぐ気なんてさらさらないし、彼らが何をしようとどうでもいいよ。面倒だから仕送りもだいぶ前に断っているよ。多分、もう、僕の資産の方が彼らよりも多いのではないかな」
こともなげに言ったリヒトに、アデーレはポカンと目と口を丸くしている。
「そんな……」
「僕はね、両親も弟も家名も、どうでもいいんだよ。彼らが僕を必要としなかった以上に、僕も彼らを必要としていない。金だけでなく、血のつながりや情も、ね。僕が欲しいのはあのひとだけだから。彼女さえ、僕の傍に在ればいい。正直、いつここを引き払っても良かったんだけど、外に行くと色々と煩わしいことも多いだろうと思ってね。それに、今のところ、ここは僕にとっては楽園に限りなく近いところだし」
リヒトは卓上の書類を揃え、引き出しにしまう。そこに鍵をかけて立ち上がった。
「どうせ、途中で辞めたら約束されていた退職金ももらえなくなってしまうのだろう? 加えて、ゲルツ家に目をつけられたら、どこの屋敷でも雇ってもらえなくなる。ああ、もしかしたら命も危ないかもね。僕が生きているというのは、ゲルツ家にとっては結構大事な秘密だから。あの父なら、家の為とか言って、何でもやりかねないんじゃないかな」
言いながら、リヒトは呆然と佇むばかりのアデーレの横を通って扉に向かう。
部屋を出がけに、彼女を振り返った。
「ここを出ていくも良し、残るもよし、君の好きにしたらいい。出ていくにしても、一生遊んで暮らせるくらいの年金は出すよ」
軽い口調でそう言って、リヒトはスッと目を細める。
「でも、残ることを選ぶなら、くれぐれも、あのひとには無礼のないようにね」
そう告げて、リヒトはアデーレを残したまま書斎を後にした。




