彼女だけが在ればいい①
書斎で今日届けられたばかりの手紙に目を通していたリヒトは、半ばまで読み進めたところで文面を視線が滑っているだけであることに気付き、投げるようにしてそれを卓上に置く。
リヒトが長年抱いていた望みをミアに打ち明けてから十日ほどが経った。
あれからミアは、日がな一日考え込んでいる。そして、食事と眠るとき以外には、リヒトに近寄ろうとしない。
昼間の居場所は相変わらず温室で、会いに行こうと思えばいつでも会える。が、彼を見ると、ミアはあからさまに困った顔になるのだ。
リヒトに気付き、ハッと腰を浮かせてその場から離れそうになり、次いで取り繕うように長椅子に戻る。
驚かされた猫のようなその反応はとても可愛くて何度も見たくなるが、リヒトは彼女に考えさせたいのであって困惑させたいわけではない。なので、最近は極力温室には近寄らないようにしている。
食事の時間になるとふらりと戻ってくるものの、ミアは元々おしゃべりな人ではない。家政婦が作った料理を機械的に片づけていくリヒトの前で、黙々と彼が作った菓子を食べるのはいつも通りだ。
いつもなら、菓子を最初に一口運んだ時に、ミアはパッと表情を明るくして、リヒトの方に顔を向ける。そしてそこで「美味しい」の一言があるのだが――あれ以来、口ごもってうつむいてしまうようになった。
とはいえ、ミアは普段から口数は多くはないけれど、礼儀は大事にする人だ。黙ったままなのは居心地が悪いらしく、時折チラチラとリヒトを見て何か言いたげにしているのが、実に微笑ましい。そこで笑ってしまうと彼女はむくれてしまうだろうから、リヒトは黙って目を逸らし、食事に集中する。
夜はミアの方が先に寝台に潜り込んでいるのは十年来と同様だが、リヒトが入っていくと彼女の方から身をすり寄せてくるようになった。
昼の寂しさ故か、それとも素っ気なくしている罪滅ぼしか。
いずれにせよ、それを拒む理由もつもりもリヒトにはさらさらなく、遠慮なく腕の中に囲い込む。そうすると、ミアは彼の胸元で安堵したように小さく吐息をこぼすから、その愛らしさに毎回理性が飛んでいきそうになる。
総じて、いつもとは違うミアのよそよそしい態度を楽しんではいるが、やはり、リヒトは早く以前のように彼女の傍にいられるようになりたかった。
自分本位な要求をミアに突き付けたという自覚はあるから、彼女が答えを出すまで自制する。彼女がどんな決断をしようともリヒトは全面的にそれを受け入れるつもりだ。つもりだが――いざその時にならなければ、自分がどんな行動をとるか、正直、判らない。
自嘲混じりのため息をリヒトが一つこぼした丁度その時、書斎の扉が叩かれた。
誰だろう、と彼は眉をひそめる。
残念ながらミアがリヒトを探しに来てくれることはこの十年間で一度もなかったし、特に今は、それはあり得ないだろう。
一方、使用人は基本的にリヒトが呼びつけない限り寄ってこないし、今日、彼がそうした記憶はなかった。彼らは、決められた時間に決められた仕事をこなすだけだ。この屋敷の中は、それで充分快適に回っている。
「どうぞ?」
リヒトの許可で音もなく扉が開かれ、するりと女が入ってきた。メイドの一人、アデーレだ。
彼女は扉を閉めると部屋の中ほどで立ち止まり、慎ましやかに微笑んだ。もうじき四十路になろうというのに、媚に満ちた絡みついてくるような眼差しは十年前と変わらない。
「あの、少しお時間をいただけますか?」
ためらいがちに問いかけてくるその控えめな態度が表面だけのものであるということは、目の奥でちらつく貪欲な光から明らかだ。
内心苦笑し、リヒトは肩をすくめる。
「何?」
「その、こちら、なのですが……」
口ごもりながらアデーレが背に回していた手を前に出す。彼女が手にしているのは、襟元が茶色に染まった彼の服だ。
リヒトはそれを一瞥し、言う。
「ああ、別に捨ててしまって構わない」
「捨ててって、これ、血ではありませんか」
「そうだね」
こともなげにリヒトが頷くと、アデーレはお仕着せの白い前掛けを握り締めた。
「この血は、いったい何なんです?」
「何って?」
空惚けて見せると、アデーレの眼がキラリと光った。
「私が申し上げたいことはお解かりのはずです! あの娘! ここに来てから十年経つのに少しも変わらない。そう見えるだけかと思っていましたが、そうではないですよね? あの娘は、年を取らない――この血は、あの娘が何か――」
「君には関係ないよ」
険しい形相で言い立ててきたアデーレの口を、リヒトは冷やかに封じた。鞭打つようなその声音に、彼女は唇を噛み締める。
「関係ないだなんて、そんな……十年前、私とあなたは――」
アデーレが言い淀む。持ち出したはいいが、彼女自身、あの時の関係をなんと言ったらいいのか判らないのだろう。
アレが何であったのかを充分に承知しているリヒトは、彼女の言葉の続きを引き取る。
「十年前、ね。関係と言えるほどのものじゃないよ。僕が君に触れた、ただそれだけのことだ」
「触れた、だけ? そんな、そんなものではなかったはずです! あんなに、あんなに――ッ」
「いや、君から迫り、僕が触れ、君が悦んだ。それ以上でも以下でもないし、そこにひとかけらの感情も含まれていないよ。僕は女性の身体というものを知っておきたかっただけだ。医学書でははっきりしないことが多かったから」
業務連絡並に冷ややかな声で言い放ったリヒトに、アデーレがグッと言葉に詰まった。
「女の身体を知りたかった、だけ?」
「ああ。現に、僕の身体はピクリとも君に反応しなかっただろう? そして君には教材になってくれた分の手当てを渡したはずだ」
呆然としているアデーレにそう告げて、リヒトは手紙に目を戻す。出ていくように態度で示したつもりだったが、彼女は引き下がろうとしなかった。
「リヒト様はそうではなかったかもしれませんが、私は、私はリヒト様をお慕い申し上げておりました!」
悲痛さを滲ませた必死な声。
いや、そう聞こえるように作った声、だ。
メイドなどさっさと辞めて、女優にでもなれば良かっただろうに。
こなせる役は限られているだろうが、人の世話をするよりかは向いているはずだ。
リヒトは放り出すようにして手紙を置き、クルリと椅子を回して彼女に向き直った。いい加減、うっとうしいし見苦しい。




