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月華の妖精①

「こんなはずじゃなかったのに!」

 廊下の先から、そんな声が聞こえてくる。

 リヒトは足を止め、小首をかしげて耳を澄ませた。どうやら愚痴を吐き出している者がいるのは洗濯室のようだ。その耳障りな声の持ち主の気配をうかがって、近づいてくる様子がないことを確かめてから、リヒトはまた歩き出す。


 リヒトが今いるのは、屋敷の中でも倉庫や厨房、洗濯室といった、使用人が作業するための部屋が並んでいる廊下だ。声の主は少し先の洗濯室にいるようだ。

 リヒトはまだ七歳だが、実質、この屋敷の主になる。その彼が日常的にこんなところを歩いているとは、使用人たちは夢にも思っていないに違いない。だから、ここに来ると彼らの本音を結構耳にする。

 とはいえ、リヒトはそんなものに興味はない。それが目的でここを歩いているわけではなく、単に、屋敷の裏に出るにはここが一番の近道だからに過ぎなかった。


「まったく! 一冬越すこともないだろうって、聞いてたのよ? だから、こんなド田舎くんだりまで来たっていうのに、もう一年近くになるじゃない」


 数歩進んだところで、甲高い声が、また響いてきた。

 声からすると、若いメイド二人の内、年長者の方か。


「田舎っていうより、森の中、ですよねぇ。見渡す限り木々ばかり、みたいな」

「あんたはまだ十二だからいいかもしれないけど、わたしは十六よ? ここでの仕事が終わったらたっぷり弾んでくれるっていうから受けたけど、早くしないとアッという間にオバサンになっちゃうじゃない。お金があったって、相手がいなくちゃ何にもならないわ」

「まあまあ、坊ちゃん、すごく身体が弱いんでしょ? 何度も死にかけたっていうじゃないですか」

 ケラケラと笑いながら、どうせすぐ死にますよ、と続きそうな台詞だ。


 リヒトは扉が開け放たれたその部屋の前を通り過ぎる。手より口の方が動いていそうだが、たった五人の洗濯物など、その程度の働きでも充分なのだろう。

 中の二人は姦しく囀っているし、入り口に背を向けていたから、リヒトがいることには全く気付いていない。気づかれてあたふたと取り繕われてもうっとうしいだけだし、面白みのない彼女達の言い訳で余計な時間を取られるのはむしろ避けたいところだ。


(でも、それにしても、よく飽きないな)

 先ほどのような遣り取りをリヒトが耳にするのは、初めてではない。言ってもどうしようもないことを何度も吐き散らすなど、不毛もいいところだ。


(それとも、僕の耳に入ることを期待しているのかな)

 リヒトが聞いて、罪悪感か何かで自ら命を絶つか何かするのを、待っているのだろうか。


 彼は、小さく笑う。

 彼女たちにとってリヒトが取るに足らない存在であるように、リヒトにとっても彼女たちは取るに足らない存在だ。

 そんな者の為に罪の意識など抱きようもない。


 リヒトがこの森の中の屋敷で過ごすようになったのは、一年ほど前、六歳の誕生日を少し越した頃のことだった。寝起きを共にしているのは、数人の使用人のみで、両親はいない。生存はしているが、所在はここから遥か彼方の都だ。


 まだ幼いリヒトが家族と離れてここにいる理由はといえば、彼が病弱だからだった。

 幼い頃から何かと病を患い少なくとも三度は生死の境を彷徨った彼だが、それでも死なずにいたのは、ひとえに、家が裕福だったからだろう。

 リヒトの父は都でも三本の指に入る有力者で、その嫡男であり唯一の子どもであるリヒトを生かしておくために、両親は医師に薬に――挙句の果てには怪しげな呪い師にまで金を注ぎ込んだ。一度など、海を越えた遥か東の国に住む薬師を呼びつけたこともある。

 その甲斐あってか、リヒトは、死にかけては引き戻され、死にかけては引き戻されを、数えるのもバカらしくなるほど繰り返してきた。


 正直、死んだ方が楽ではないかと、幼心に思ったことが一度ならずある。ここまでして生かされる理由が――生きなければならない理由が、果たしてあるのだろうかと、思ったのだ。

 当時、流石に積極的に死を選ぶほどの知恵はなかったが、熱や嘔吐で朦朧とするたび、咳と呼吸困難で息も絶え絶えになるたび、早く終わりにならないものだろうかとぼんやりと願っていたものだ。


 そして、ついにそんな日々が終わりを告げたのは、一年前のことだった。


 リヒトが何度目になったか忘れた肺炎で臥せっていた時、母の懐妊が判明したのだ。


 リヒトを生んでからはさっぱりその気配がなくて、両親は次の子を半ば諦めていたのだろう。だからこそ彼を生かしておこうと躍起になったし、もう一人子どもが手に入るとなって、有頂天になった。

 それから十月十日が過ぎ、生まれてきたのが男児だとなれば、リヒトの扱いが一変したのも当然だ。手間と暇と金ばかりを食う跡継ぎ候補をお払い箱にできる目途が立ったのだから。


 三日に一度は熱を出していたリヒトとは打って変わって弟はくしゃみ一つすることなく、すくすくと育っていく。


 やがて弟が無事に一歳の誕生日を迎えた日。


 唯一の後継ぎという価値が無くなったリヒトを、療養という名目で、父と母はこの人里離れた深い森の奥に建つ屋敷に送り込んだのだ。


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