胸の内に潜む蔭②
リヒトはいとも簡単に言うけれど、ヴァンピールになるということは、ヒトであることを捨てるということだ。何もかもが、今までとは大きく変わってしまうことなのだ。
リヒトはミア以外の人間をほとんど知らない。人間の社会というものを、知らない。知らなければ、捨てることも簡単だ。リヒトは自分で選択したように思っているかもしれないけれど、実はそうではない。単に、他の選択肢を知らないだけなのだ。
(それは、間違ってる)
間違っているし、正しくないし、望ましくもない。
だから、リヒト自身からどれほど強く乞われても、ミアは彼を眷属にすることへの抵抗感がどうしても拭いきれないのだ。ミア自身が今が続くことをどれほど強く願っても、彼をヴァンピールにするべきではないという思いが、どうしても消せない。
うつむいた拍子に視界の端に入ってきた、銀髪。
一瞬、頭の中に何かが閃いて、消える。
モヤモヤとした気持ちだけが残って、ミアは髪を握り締めた。
リヒトを、ヒトをヴァンピールにすることは、良くないことだ。
(だって、ヴァンピールになったら……)
――なんだろう。
ミアは、リヒトをヴァンピールにしてはいけない理由を考える。
ヴァンピールになれば、ヒトではなくなる。ヒトの社会には戻れなくなる。
ヴァンピールはヒトの血を飲む。絶対に必要なわけではないけれど、言い伝えではそうなっているから、ヒトにとっては『化け物』だ。普通は恐れ、遭遇したら悲鳴を上げて逃げていくだろう。他人に知られることがなくても、自分がそんなモノになることに、嫌悪は抱かないのだろうか。
(でも、リヒトは、私があんなに血を飲んでも笑っていたわ)
少なくとも彼自身にとって、吸血という行為は、される側になるとしてもする側になるとしても、大きな問題にはならないように見えた。
ミアは唇を噛む。
(じゃあ、陽の光は?)
生粋のヴァンピールではないミアとレオンハルトは昼間に出歩くことができるし、年を取らないことに気付かれなければ、一ヵ所に留まらなければ、人に勘付かれることもない。
だが、眷属はヴァンピールそのものになるから、陽の光に少しでも触れれば彼は焦げてしまうようになる。夜の間しか動けない身になるのだ。それは、ヒトとして大きな違和感を抱かせるようになり、奇異の眼を向けられるようになるだろう。
古今東西、どの地に赴いても、ヴァンピールはヒトに忌み嫌われている。リヒトを眷属にすれば、彼はこの先ずっと、他者の目を気にしなければならなくなる。
(リヒトをそんなふうにしても、いいの?)
ミアはかぶりを振る。
やっぱり、ダメだ。
自分が彼に傍にいて欲しいからといって、それをしてもいいとは思えない。
たとえ彼が望んでいると言っていても、立ち止まってちゃんと考えなければいけない。
リヒトを、ヴァンピールという魔物にすべきか否か――そうしても良いものなのか。
したいことと、していいこと、すべきことは、必ずしも一致しないものだ。
一番に考えるのは、『すべきこと』でなければならない。
リヒトにとって、どうすることが一番良いのか、それを考えなければ。
ふと、ミアは思う。
(お父さまは、どうしてお母さまを眷属にしなかったの?)
父は母を愛していた。
母も父を愛していた。
父と母は、幸せだった。
それを疑ったことはない。
(でも――)
だったらどうして、父は母を眷属にせず、母は父に眷属にすることを乞わなかったのだろう――リヒトがそうしたように。
きっと、ずっと、一緒にいたかったはず。そうできる道が、二人にもあった。
けれども彼らは、その道を選ばなかった。
「それは、何故?」
声に出してみても、もちろん、答えが返ることはない。
その理由を、ミアは、父に、そして母に問いたかった。
母はもういないから無理だけれど、父ならば、この世界のどこかにはいる筈の父ならば、答えをくれるはずだ。ヴァンピールである父ならば、何故大事な人をこちらの側に引き込んではいけないのか、きっと、教えてくれるはず。
両親の仲睦まじい様を脳裏によみがえらせつつ、ミアは、何の気なしに眼を上げた。と、温室の一画に盛られた土が目に入る。いや、土よりも白くて、灰か何かのように見える、山だ。
庭はともかく、この温室はミアがいない間にマメに手入れをされているから、そういう土の山は常にどこかしらにあったはずだ。
これまでは全く気に留めなかったそれが、今はやけに心に引っかかった。しかも、不快な感覚と共に。
(何だろう、この感じ)
ミアは無意識のうちに手をみぞおちに当てた。そこが、ざわついている。
静かな湖面に小石が一つ投げ込まれたような、そんな、感じだった。
何の変哲もない土の山。
どうしてそんなものがこんなにも気になるのだろう。
「……お父さま?」
無意識のうちに、ミアはポツリと呟いていた。
どうしても、父のことが気にかかる。
父が今、どうしているかが。
母を喪い、泣き疲れて眠りに落ちたミアが目覚めたら、父はもういなかった。彼を探すミアに、レオンハルトが「父は傷心のあまり旅に出た」と教えてくれたのだ。あの時のレオンハルトは少し怒っているように見えて、ミアはあまり深くを尋ねようとはしなかった。それからすぐにミアは彼と共に城を出て、そうなれば見るもの聞くもの何もかもが新鮮で、父のことを考える時間はどんどん少なくなっていった。温かな母の記憶と共に、いつしか父のことも遠い思い出の中に埋もれさせかけていた。
ふとミアの脳裏に、まるでレオンハルトは彼女に父のことを思い出させたくないようだった、という妙な考えが走る。
(そんなはず、ないのに)
レオンハルトがそんなことを目論む理由も必要性もないはずだ。
けれど、頭でどれほど否定しようが、胸の内のざわめきは一向に落ち着く気配を見せない。
ミアは、胸元の服をクシャリと掴んだ。
リヒトに抱き締めて欲しい。
しっかりとその腕で包み込んで、いつものように、頭の天辺に口付けて欲しい。
不意に沸いたその思いは、自分でも戸惑うほどに強かった。
けれど、彼の望みへの答えを見いだせていないのに、そんなことを乞いに行くわけにもいかなくて。
ミアは小さく縮こまり、己の腕で我が身を抱き締めた。




