胸の内に潜む蔭①
「リ――」
遠ざかっていくリヒトの背に向けて、ミアは意識せぬまま手を伸ばす。彼を呼び止めようとして、最後までその名を口にすることができなかった。
『何百年でも、ミアと生きていきたい。あなたには、それができるはずだよね』
ミアの耳にリヒトの声がよみがえる。
その台詞が意味するところは――
ミアの他に誰もいなくなった温室の中は静まり返り、彼女がコクリと唾を呑み込んだ音がやけに大きく響いた。
リヒトはミアがヴァンピールだと思っている。そして、ヴァンピールというものが不老不死であることを知っている。
ヒトとの混ざりであるミアは、生粋のヴァンピールのような不老不死ではない。けれど、数十年しか生きられないヒトと比べれば、ほとんど不死と言っていいだろう。
そんなミアと生きていきたいと、リヒトは言った。
ミアは長椅子の上で膝を抱える。
(リヒトは、眷属に――ヴァンピールになることを望んでいる)
はっきりと、ではないけれど、確かに彼はミアにそう告げたのだ。
『僕は、永遠が欲しいよ、ミア』
リヒトはそう言ったけれども、いったん眷属になってしまったら、もうヒトには戻れない。
ミアとはたったの十年や二十年しか一緒にいないのに、リヒトは三十年も生きていないのに、後悔しないでいられるのだろうか。その時、ミアのことを憎まずにいてくれるのだろうか。
リヒトとは、一緒にいると心地良い。寛げる、といってもいいかもしれない。レオンハルトといても落ち着けるけれども、彼のそれは両親の延長のようなもので、何というか、屋根と壁がある家の中で守られているような安心感だ。
(リヒトは……そう、陽だまりにいるみたい)
リヒトが、髪をすくように撫でてくれるのが好きだ。
膝にのせてふんわりと抱き締めてくれるのも。
温度の低いミアの肌に沁み込むリヒトの温もりを、そうやって彼を感じることを、失いたくないと思っている。
リヒトに乞われて、彼の望みを叶えるためだけにここに来たはずなのに、今では、ミアの中にも彼の傍に在ることを望んでいる気持があることを、否定できない。
移り気な子どもの言うこと、どうせきっとすぐに離れることになるだろうとこの屋敷に来たばかりの頃は思っていた。
それが、三年が過ぎ、五年が過ぎ。
動きのないここでの日々は微睡の中にいるようで、気付けば十年が過ぎていた。そうやってふわふわと流れていった年月の中で、ミアが助けてあげないといけないリヒトは、いつの間にか消えていたのだ。
ミアにとってはほんの一瞬だったように感じられるその年月は、確かに、リヒトにとってはそうではないのだろう。あと数十年もしたら、もう、彼はいなくなってしまっているのかもしれない。
リヒトがいなくなれば、ミアはまたレオンハルトと共に旅に出る。リヒトと出逢う前に、そうしていたように。
けれど。
(その時、私は元の……ここに来る前の私に、戻れるの?)
判らない。というよりも、想像できない。
ただ、リヒトがいないという状況を考えるのは、彼に会えなくなるということを考えるのは、とても、イヤだった。
髪を撫でてくれる優しい手が、一晩中抱き締めてくれる温かな腕が失われることなど、考えたくなかった。もしかしたら、ミアの方がより強く、リヒトに傍にいて欲しいと思っているのかもしれない。
その望みを叶えるかどうかは、ミア次第。リヒトが乞い、ミアが望んでいるなら、叶えてもいいはず。
(でも、本当に、それでいいの……?)
ミアは、血がにじむほどにきつく、唇を噛み締めた。
リヒトを眷属にすれば、彼はこれから先もミアと共に生き続ける。
ミアの両親がしていたように、ミアとリヒトも深い森の中のこの屋敷で、二人で生きていける。
けれど、本当に、それは正しいことなのだろうか。
(どうして、リヒトは私と一緒にいたいと思うの?)
リヒトはミアと一緒にいたいと言う。けれど、その理由は何なのだろう。
その問いに対して彼女が思いつく答えは一つ、「寂しいから」だ。
もう遠い昔のことではあるけれど、まだ城にいて両親がいた頃、ミアは彼らに慈しまれていた。城を出て旅暮らしになってからは、レオンハルトに。
いつだって、ミアの傍には彼女のことを大事にしてくれる人がいた。レオンハルトは時々――しばしば――過保護で、ちょっと腹が立つようなこともあったけれども、ミアも、大事にされていると、ちゃんと感じられていた。
けれどリヒトは、幼い頃に親から離されこの屋敷に来て、使用人にも優しくしてはもらえなかった。そんなときにミアに逢って助けられて、彼にとって特別な存在だと刷り込まれてしまったということはないのだろうか。
それは単なる思い込みで、勘違いのようなものだ。
そんな、間違っているかもしれない想いでリヒトの一生を変えてしまうわけにはいかない。変わってしまったらもう二度と戻れないというのに。
(そんなの、良いわけがない)
だから、リヒトはヴァンピールになってはいけない。
このままミアと同じ道を進み続けるのは、正しいことではない。
(絶対、そう)
ミアは、自分自身を抱き締めて、ギュッと小さくなった。
真冬でも薄衣一枚でも平気でいられるのに、どうしてか、今は肌が粟立つほどに薄ら寒く感じられてならない。




