この世界で唯一の光
途方に暮れたようなミアを置いてその場を去るのは、リヒトにとって簡単なことではなかった。
だが、今の彼女には、彼が告げたことを一人で考える時間が必要だろう。
リヒトを、眷属にすること。
古今東西の文献を読み漁り、それが実現可能なことであろうと推測した。
そして今しがた目にしたミアの狼狽ぶりが、その考えを裏打ちしてくれたのだ。
できれば、ミアに充分な猶予をあげたかった。だが、彼女に言ったように、リヒトの時間は、ミアほど長くない。あと一年や二年なら待てるが、十年も二十年もは、無理だ。
今のリヒトは二十七歳。
ミアと出逢った頃の子どもの姿で時を止めてしまえば、彼女を守ることができなかった。
だから、二十年待ったのだ。
この姿であれば人に侮られることもなく、ミアの庇護者として傍にいられる。
「彼女は答えを出せるかな」
呟き、リヒトはまだミアの温もりが残る手のひらを握り締めた。その感覚を閉じ込めるように。
「ミア」
名を呼ぶと、脳裏によみがえるのはリヒトの望みを伝えられ愕然としていた彼女の姿だ。
驚きと、そして、見え隠れする罪悪感。
日向の猫さながらに常に泰然としているように見えるミアだけれども、時折、罪の意識めいたものがその面によぎることにはリヒトも気づいていた。
それが、リヒトの言葉でまざまざと浮かび上がった。
ミアに、あんな顔をさせたくはなかった。
リヒトは軋む音が響くほど、奥歯を噛み締める。
だが、必要なことでもあったのだ。
(僕は、彼女と同じものになりたい)
たとえミアが己の性を疎んじていようとも。
リヒトが言葉でどれだけ訴えても、未だに、彼女は数口程度しかリヒトの血を飲もうとしない。彼が飲めと言うから、ごまかし程度に口にしているだけだということが、伝わってくる。
多分それは、ヴァンピールとしての自分を彼に見せることにためらいがあるからなのだろう。
吸血の時、ミアからは自制の念がひしひしと伝わってくる。
本当は、もっと飲みたいはずだ。
牙を抜き、顔を背けるミアの素振りは、嫌なことから解放されたというものではなく、目の前のごちそうから、無理やり遠ざかろうとするものだ。
吸血という行為そのものに対しての嫌悪なのか、それとも、吸血する姿をリヒトに見せことに対しての嫌悪なのか。
ミアの中にあるものがそのどちらか一方なのか、あるいは両方があって、どちらの方がより大きく彼女の中を占めているのかは、リヒトには判らない。
いずれにせよ、リヒトは、そんな『化け物である』ミアも受け入れている。ミアがミアであるなら、どんな彼女でも構わないのだ。
「ごめんね、ミア」
ここにはいないひとに向けて、リヒトは声に出して囁いた。
彼女に辛い思いはさせたくない。彼女にはいつだって笑っていて欲しい。
だが、彼にも余裕がないのだ。
ミアは、自分とは違う――それが、覆しようのない事実だ。初めて出逢ってから、二十年。その二十年間で、リヒトは嫌というほど思い知っている。
このまま時が流れるに任せていれば、そう遠くない先にあるのは永久の別れだ。
その明白な未来を、リヒトは受け入れる気など毛頭なかった。
リヒトは、ミアが欲しい。この先ずっと、永遠に。
ならば、ミアを手放さずに済むようにするには、どうすれば良いのか。
ただ、その身体だけを手に入れるのは、簡単だ。
それこそ、物理的に閉じ込めてしまえばいい。リヒトだけが鍵を持つ部屋に閉じ込めて、鎖で縛り付けてしまえばいい。
「そんなのは、簡単なことなんだ」
リヒトは立ち止まり、拳を握る。
だが、リヒトは、彼女の心も欲しかった。
彼が彼女を求めるのと同じくらい、彼女にも彼を求めて欲しかった。
彼が彼女を想うのと同じくらい、彼女にも彼を想って欲しかった。
彼の世界の中心である彼女の世界の中心に、彼はなりたかった。
以前にミアは、リヒトのことを特別だと言ってくれた。だから、ここにいるのだと。
確かにこの十年間は、ミアはリヒトの傍にいてくれた。だが、それは、十年など彼女にとってはたいしたものではなかったからなのかもしれない。特別だと言いつつ、それは彼女にとっては瞬きほどの間の気まぐれに過ぎないのかもしれない。
ミアがここに留まっていてくれるのは、彼女がここにいても構わない――ここで時間を浪費しても構わないと思ってくれているからに過ぎないのだ。だから、たとえ今はこうやってこの手の中にいてくれたとしても、次の瞬間消え去っている可能性は、常にある。
あるいは、ミアの気が変る前に、リヒトの時間が尽きてしまう可能性も。
「僕は、永遠が欲しいよ、ミア」
ミアと共に過ごす、永い時が。
眷属になれば、ミアと同じ時を生きることができるようになりさえすれば、彼女が在る限り、傍にいることができる。
たとえミアを見失うことがあったとしても、再び追いつくまで捜し続けることができるようになる。
リヒトの脳裏に、彼の傍でまどろむミアが、触れることを許してくれるミアが、口づけに応えてくれるミアが、浮かぶ。
一年に一度しか逢えず、残りの日々は崇めるように心の中で想うしかなかったひとが、今はこの手の中にいるのだ。
彼女は、リヒトにとってこの世界で唯一の光だ。
それを手放さずにいるためには、何でもしよう。
決意を胸に、リヒトは前を見据え、再び歩き出した。




