望み
いつものように、午前の仕事を終えたリヒトが温室に姿を現し、膝の上にミアを抱き上げる。
ミアのすぐ前に脈打つリヒトの首筋があって、彼女は小さく喉を鳴らした。
欲しい。
そこに牙を立て、溢れる甘い雫を、貪りたい。
頭をよぎったその欲求を、ミアはギュッと目を閉じてやり過ごす。
最近はいつもそうだ。
始まりは、リヒトを宥める為の吸血だった。なのに最近は、彼の血を飲みたいと思っている自分がいる。
こんなの、ダメなのに。
リヒトの血なんて、欲しくない。彼を傷付けることなんて、したい筈がない。
肩を強張らせたまま動こうとしないミアに、彼女の葛藤などさっぱり気付かぬ様子なく、リヒトが首をかしげる。
「ミア? どうかした?」
ミアの頬に手を添えて、目を覗き込むようにして問いかけてきた。
思わず身を引きかけた彼女の腕を、すかさずリヒトが捕らえる。
「ミア?」
彼は眉をひそめてミアをみつめていた。彼女の胸中を見透かそうとするような、そして案じるようなその眼差しから、眼を逸らす。
リヒトを――リヒトの血を欲してしまう自分が、情けなくて。
一年に一度だけ会っていた頃は、リヒトのことは常に頭の片隅にあったけれども、彼のことで思い悩むことはなかった。ここに連れてこられて、ともに生活するようになってからも、大きな変化はなかった。
変わり始めたのは、リヒトの血を口にするようになってからだ。
初めの一口から始まり、ゆっくりと、けれど確実に。
レオンハルトと暮らしていた数百年の間には生まれなかった何かが、ミアの中に芽生え始めている。
それが、怖い。
「放して」
ミアは手を振り払ってリヒトから逃れようとしたけれどそれは叶わず、逆に彼の腕の中に引き戻されてしまう。
「怒ってるの? なんで?」
抱き締められて身を強張らせたミアに、リヒトは狼狽を含んだ声で問うてきた。
「怒ってない」
「でも、機嫌は悪いよね?」
「別に、悪くない。ただ、今日は飲みたくない気分なの」
「……昨日も一昨日もそう言っていたよね。最後に飲んでから七日は経つよ」
「元々、私の方から欲しいって言ったわけじゃないわ」
「そうだけど……」
リヒトは、ミアが次は何を言い出すのかと警戒している面持ちだ。
ミアは一心に見つめてくる彼から目を逸らす。
「だいたい、血を飲ませるなんて、そもそも普通じゃないのよ」
「僕がそうして欲しいんだから、いいじゃないか。『普通』かどうかなんて、どうでもいい」
人外であるミアが説いた常識を、ヒトであるリヒトがあっさりと否定した。
ミアは眉をひそめる。
「ヒトの世界で生きていくには、ヒトの世界の枠にはまるのは必要なことでしょう?」
「どうして急にそんなくだらないこと……誰かに何か言われた?」
低い声で呟いたリヒトの眼に、不穏な光が宿った。うっかり下手なことを言えば何か取り返しのつかないことが起きそうで、ミアは視線を下げる。
「そんなんじゃないわ。ただ、あなたを見ていると心配になるだけよ」
リヒトの腕の中で彼の胸に額を押し付けるようにして顔を伏せ、ミアは囁いた。
「心配? 何が貴女の気を病ませるというの?」
リヒトはミアの背に手を添え、彼女の耳元で問いかけてくる。
「ミアの憂いは全て僕が取り除いてあげるから、教えて?」
頭の天辺に、リヒトの視線を感じる。
そういうところだと、ミアは言いたかった。
リヒトは、あまりに盲目過ぎる。
ミア自身の欲求と、リヒトの望むこと。
両者はお互いを満たし合ってしまっている。満たされてしまっているから、リヒトは『他』に眼を向けようとしないのだ。
「リヒト……」
ミアは顔を上げ、リヒトを見ようとした。が、それは叶わず、彼にきつく抱きすくめられてしまう。
リヒトはミアの髪に顔を埋めるようにして、深々と息をついた。
「どうして、あなたは……」
そう呟いて、もう一度大きなため息をこぼす。
「リヒト?」
抱き締められたまま、ミアは首を傾げた。けれど、彼女の肩に顔をうずめたリヒトの表情を確かめることはできない。
「僕は、あなたがいればそれでいいんだ。それだけでいいんだ」
まるで二十年前に戻ったかのような、リヒトの声。
思わずミアは手を上げて、リヒトの柔らかな髪に指を潜らせる。まだ幼かった頃の彼にしたようにそっと頭を撫でると、ミアを抱き締める腕に力がこもった。
「私は――私たちは、ヒトの社会の理から外れた存在よ。今のこの状態は、正しくない。私は、お前にヒトとして当たり前の人生を歩いて行って欲しいのよ」
当たり前で、普通で、そして幸せな人生を。
小さかった彼に乞われるままにここに来て、過ぎた時間は、ミアにとってはまだ瞬きほどのもの。けれど、リヒトにとっては決して短くない、ヒトが子どもから大人になるのに十分な時間だ。
ミアはここに長く留まり過ぎた。
本当は、とうに発っているべきだった――二人の関係に、ミア自身の望みが忍び込んできてしまう前に。
「リヒト、私は――」
正しいことを説こうとしたミアの唇に、リヒトのそれが重なる。触れるだけの、しかし有無を言わせぬその口づけに言葉を奪われ、ミアは目を見開いた。
「その先は言わせないよ、ミア」
いつもと同じ優しい声なのに、一切の反論を赦さない断固とした響きがそこにある。
リヒトは絶句しているミアの額の髪をよけ、そこに唇を落とすと、彼女を腕の中に閉じ込めた。まるで、ミアが逃げ出すことを恐れるように、少し痛みを覚えるほどの力を込めて。
「僕は、あなたと離れたくない。あなたと離れるなんて、考えられないんだ。僕が怖いと思うのは、あなたが僕の前から消えることだけだ。叶うことなら、この先何十年も――何百年でも、ミアと生きていきたい」
リヒトは頭を下げて、ミアの耳に口を寄せる。
「あなたには、それができるはずだよね」
彼の最後の囁きに、ミアは身を強張らせた。
それがリヒトに伝わったのだろう。彼は少し腕の力を弱めて、彼女の頭の天辺に口づけた。
「急にごめん。でも、僕は二十年前からそう思っていたよ。ここまで、待ったんだ」
リヒトはミアを解放し、そうして、彼女の肩を掴んで目を覗き込んできた。
「ミアの中に、何か、わだかまるものがあることには気付いているよ。でも、僕はあなたと同じものになって、永い時を生きるあなたと共に生きていきたい」
ゆっくりとした、静かな声での宣言だった。
ミアはグイとリヒトの胸に手を突っ張って、できる範囲で身体を離す。いや、離そうとしたけれど、リヒトはそれを許さなかった。
間近から見つめられながら、ミアは言い募る。
「私と同じって……私たちは――ヴァンピールは、お前たちから見れば化け物でしょう!? 怖いと思わないの!?」
「ミアを? 怖いって?」
リヒトは呆れ返った声でそう繰り返し、そして笑う。
「これも前に言ったけど、それは絶対に有り得ないから。あなたのことで僕が怖いと思うことがあるとすれば、それは、あなたが僕の前から消えてしまうこと、それだけだよ」
甘い声で紡がれた言葉に応じられずにいるミアから、リヒトの手がそっと離れていく。
立ち上がったリヒトを、ミアは呆然と見上げた。そんな彼女に、彼は微笑む。
「返事は今じゃなくていい。でも、忘れないで。僕の時間は、あなたほど長くない」
そう告げたリヒトは名残惜しそうにミアの頬に触れ、その優しい手つきとは裏腹な強い眼差しで彼女を見つめた後、踵を返す。
歩き去っていくリヒトを、ミアは呼び留めることができなかった。




