要らない子ども②
ミアは困惑と共にアデーレを見つめる。
上手、とは、どれのことだろう。
(もしかして、お菓子のこと……?)
確かに、リヒトがミアに作ってくれる菓子は、美味しい。見た目もきれいで、上手だ。
(他にリヒトがしてくれることで上手い下手を言えることって、何かあるかな)
思い当たらない。
歌や楽器は聴いたことがないし、菓子以外に何か物を作っているところも見たことがない。
内心ミアが首を傾げていると、潮が引くようにアデーレの顔から笑みが消えた。不満そうなのは、ミアが彼女の期待通りの反応を見せなかったからだろうか。
アデーレがムッとした顔をしていたのはほんの一瞬で、すぐにまた口元だけの笑みを浮かべた。
「彼の価値って、お金だけかと思っていたのよ。だから、アレは嬉しい誤算だったわ」
そう言って、彼女は軽く目蓋を伏せ、熱を帯びたため息をこぼした。
ミアは、その台詞の中の一言に引っかかる。
「価値? リヒトの、価値って?」
「あら、知ってるんでしょう? 彼ってすごいお金持ちじゃない。十七になった時、財産を引き継いだから。それまでは親にも捨てられた可哀想な子どもだったけど、あれで一気に豪勢な宝物になったのよ」
まあ、実質手切れ金のようなものだけれどもね、と嗤ったアデーレをミアは見つめる。
「お金は、リヒトの『価値』とは関係ない。リヒトの価値はリヒト自身にある」
アデーレを真っ直ぐに見つめ、迷いなくそう言ったミアに、彼女は明らかに小馬鹿にした眼差しを返す。
「何を言ってるのよ。親ですら見放したのよ? そんな子にどんな価値があるっていうのよ。知ってる? 都で彼の葬儀が催されたとき、同時に弟君が正式に後継者に認められたんだけど、リヒト様のお父上ったらそっちの方を盛大に祝って、まるでお祭りのようだったんですって」
リヒトが死んだことにされたという話は、彼の口からもきいた。けれど、こともなげに言われるのと悪意に満ちて言われるのとでは全然感じられるものが違う。
「リヒトは、要らない子なんかじゃない」
青い目を光らせてそう応えたミアを、アデーレは鼻で嗤い飛ばした。
「要らない子、よ。だからこんな森の中に追いやられてるのよ。お金があるのにこんなところにいるのなんて、存在自体が邪魔だからでしょ。リヒト様だってその自覚があるから、ここから出ようとしないんじゃない」
そんなことはない、と、言いたかった。
けれど、確かに、リヒトが二十年以上もここに留まっている理由が、ミアには解からない。
押し黙った彼女に、アデーレが小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「あなた、もう二十五、六にはなるんじゃないの? 来た時と少しも変わらないように見えるけど、それも今の内よ。もう少ししたら、みるみるそのキレイな顔も衰えていくわ。自分が捨てられた子どもだから、彼も薄情なのよね。だから、その見てくれって取り柄が無くなったら、あなたも捨てられるわよ、きっと」
冷笑と共にそんな台詞を投げ付けて、アデーレはミアを押しのけるようにして彼女の横を通り抜けると、腰を揺らす悠然とした足取りで去っていく。
その足音が完全に聞こえなくなっても、ミアはその場から動くことができなかった。アデーレが残していった言葉で、彼女の脳裏に幼い頃のリヒトの姿がよみがえっていたから。
一年に一度逢う彼は、ミアを見るたび満面の笑みで顔を輝かせ、弾む足取りで駆け寄ってきた。
喜びに溢れたあの笑顔を、ミアは、そのまま受け取るだけだった。単に、彼女に逢えて嬉しいと思っているだけなのだろうと――そう思われて嬉しいとすら、思っていた。
(でも、あんなに喜んでくれたのは、他に誰もいなかったからなのかもしれない)
親に「捨てられ」て、数少ない傍にいる人からも、あんなふうに言われて。
ミア以外に選択肢がなかったから、傍にいる相手に彼女を選んでいるのだろうか。
身体の両脇で拳を握り締めたミアに、背後からから声がかかる。
「ミア?」
知らず伏せていた顔をパッと上げ、ミアは振り返る。
「リヒト」
「こんなところにいたんだ? 温室にいないからどこに行ったのかと思ったよ……どうかした?」
この寝室からいくつか部屋を隔てたところにあるのが書斎だ。そこから出てきたらしいリヒトは、ミアを見た瞬間笑みを浮かべ、次いで、その笑顔を曇らせた。
リヒトは大股にミアに歩み寄ってくる。その手が伸ばされるより先に、彼女は彼の身体に両腕を回し、広い胸に顔を押し付けた。
ミアの方からリヒトに触れに行くことは滅多にないから、彼女のその行動に彼は面食らったようだ。
「えっと……ミア?」
リヒトはミアを案じる響きがにじむ声で名を呼ぶと、彼女の背に広げた手を置き、もう片方の手で銀色の髪を撫で下ろす。優しさが溢れるその所作に、ミアの鼻の奥がツンとした。
(リヒトは、薄情なんかじゃない)
胸の内でここにはいないアデーレに向けて呟き、リヒトの服をギュッと握り締める。
ミアは、リヒトを抱き締めたつもりだった。そうしたかった。けれど、もうリヒトの方がずいぶんと大きくなってしまったから、彼女に彼を包み込むことができない。
それが、悔しい。
硬く温かな胸に向けて、ミアは言う。
「私はお前を助けたわ」
「そうだね」
穏やかな応え。
「それからも、ずっと助けているわ」
「うん、ありがとう」
小さな、笑い声。
「……リヒトは、要らない子なんかじゃないのよ」
ミアのその台詞で、ゆっくりと彼女の髪を撫で続けていたリヒトの手が止まる。
「……誰かから、何か言われた?」
問われてもミアは答えられず、ただリヒトの上着を握り締める手に力を込めた。それが伝わったのか、彼が小さく息をつく。次いで、ふわりとミアの身体が浮き上がり、あ、と思った時にはリヒトの片腕に座らされるような恰好で抱き上げられていた。
隠しようがなくなったミアの顔を、微かな笑みを浮かべたリヒトが見上げてくる。
「ねえ、ミア。余計な雑音に耳を傾ける必要なんてないよ。他の誰かが何を言おうと――僕を必要だと言おうが言うまいが、僕にはどうでもいいんだから」
リヒトは彼の肩に置いたミアの手を取り、指先に口付ける。
「僕は世界中の人間が僕を切り捨てても、あなたさえ僕を認めてくれたらそれで良いよ」
そう告げた彼の眼差しは、一筋の翳もなく輝いている。その言葉はわずかな噓偽りもない、真実であると言わんばかりに。
ミアはその眼を見ていて、どうしようもなく胸が苦しくなった。翳がないことが何故かやるせなく、優しい声でのその台詞が、とても苦く感じられる。
世界から切り捨てられても構わないということは、即ち、彼自身が、世界を切り捨てているということになりはしないだろうか。
(そんなの――それで、いいの……?)
ミアは、リヒトの頬に手を伸ばす。彼女が触れた瞬間、彼はふわりと笑う。
(私は、いったい、彼の何を助け、何を守ってきたのだろう)
屈託のないリヒトの笑顔を見下ろして、ミアは、その奥に潜むものに思いを巡らせていた。




