要らない子ども①
ミアの一日は、概ね温室での昼寝で終わる。
少量とはいえリヒトの血をもらうようになってから、耐えられないような眠気に襲われることはなくなったのだけれども、習慣になってしまっているのか、いつも、気付けば足が温室に向かっていた。
そんな時、リヒトも傍にいて、何かを読んだり書いたりしていることがほとんどだ。とは言え温室に行くときに一緒にいることはあまりなく、たいていは、ミアがうつらうつらしているといつの間にか来ているのだ。
そんな、リヒトがいつでも傍にいるという状況に、ミアは、時折不安めいたものを覚える。
リヒトのことが嫌いになったわけではない。
彼が近くにいる状況が、好きか嫌いかと言われたら、好きだ。
ただ、落ち着かないというか――これでいいのだろうかという、モヤッとした迷いのようなものに襲われるのだ。
そう感じるようになったのは、多分、リヒトの血を飲むようになってから、あるいは、彼が口づけをしてくるようになってからだと思う。
もちろん、それまでだってリヒトはミアに口づけをすることはいくらでもあった。けれど、今までのような、かすめるように触れるだけのものとは、全然違う。
それに、触れ方。
ミアはギュッと身体を小さくする。
この屋敷に来たその日の晩からリヒトと同じ寝台で彼に抱き締められて眠っているし、昼だって、流石に終始抱き締められっ放しになることはないけれど、ひと時たりとも手放してはいられないという風情で、彼女の髪や頬に何かと触れてくる。
(でも、アレはそれとは違う)
最近のリヒトは、ミアの身体の中の、今まで誰も触れてこなかったような場所に触れてくる。強いて言えば幼い頃はレオンハルトがおむつを替えたり風呂に入れたりしてくれたこともあったそうだから、触れられたことがあったといえば、あるかもしれないが。
(違う、よね)
胸の内でそう呟いても、何がどう違うのか判らない。
ただ、あの触れ方をされると単に肌に触れられているだけではないような、何か、もっと大事なものに彼を近づけてしまっているような気がして、それを許していることに落ち着かなくなるのだ。
――どうして、そんなふうに思うのだろう。
(わからない)
考えても考えても、ミアの中にあるものは困惑一択だ。
そんなふうに頭を悩ませながら温室へと向かっていた彼女だったが、不意にすぐ横の扉が開いてビクリと立ち止まる。姿を現した人物に、微かに目を見開いた。
(この人は……)
二人いるメイドの内の年かさの方で、名前はアデーレだ。
ミアがここに来てから十年が過ぎた今も、使用人たちは彼女のことを見て見ぬふりだ。悪意があるというよりも、単に無関心なだけというか、敢えて関心を持たないようにしているという印象を受ける。
以前にリヒトに自分は彼らに嫌われているのではないかと訊いたことがあって、その時は、雇い主と使用人の関係はそんなものだと言われた。使用人は家具と同じで、主人が快適に過ごせるようにするためだけに存在しているのだと。だから、互いに、興味も関心も抱かない。
「リヒトはそれでいいの?」
眉をひそめてミアがそう問うと、彼はその質問の意味が解らないような顔を返してよこした。
「それでいい、って?」
「だから、他に四人もいるのに、仲良くできなくていいの?」
彼女の台詞にリヒトはポカンと目を丸くし、そして失笑したのだ。
ミアは至って真剣に彼のことを慮って言ったのに、笑うとは。
「ああ、ごめん」
睨んだ彼女にリヒトは表情を取り繕って謝ってみせたけれども、笑ったという事実は消えない。
ミアが唇を引き結んでいると、彼は小さな咳払いをした。
「本当に、それは気にしなくていいんだ。普通、雇い主と使用人が親しくすることなんてないし、むしろそんなことをする方がおかしな目で見られるよ」
リヒトは何でもないことのように言ったけれども、ミアは納得がいかなかった。旅の途中、雇い主と雇われ人はたくさん見てきたけれども、中には家族同然に仲が良さそうにしている者もいた。少なくとも、リヒトが言うように冷ややかな間柄でいる者は、いなかったはずだ。
そう告げて食い下がったミアに、リヒトは困ったように眉尻を下げた。
「まあ、市中ではそうかもね。ただ、うちの実家はいわゆる『身分が高い人』なんだ。だから、使用人のことなんて人とも思ってないって感じじゃないかな。うちに限らず、両親と同じような立場の者はそんな感じだよ」
そんなふうに言う彼は穏やかに微笑んでいて、ミアは、それ以上は何も言えなくなったのだ。
ミアは、リヒトとの遣り取りを思い出しつつ、目の前に立つアデーレを見つめる。
アデーレが出てきた部屋はミアとリヒトが共に使っている寝室で、彼女は敷布と思しき布の塊を抱えている。アデーレが歩き出しそうな気配を見せたから、ミアは半歩ほど後ずさった。別によけなくても充分に通り抜けられるだけの幅が廊下にはあったけれど、気付けば身体が動いていた。
いつものように、一礼を残してそのまま行ってしまうのだろうとミアは思っていた。だが、アデーレはそこに立ち止まったままだ。
「?」
思わず目をしばたたかせたミアに、アデーレは微かに目を細めた。そして、言う。
「うまくやったものね」
「……え?」
多分、まともに彼女の声を聞いたのはこれが初めてだ。少しかすれた低めの声で、耳に入ってきたとき、ミアは背筋を長虫が這うような感触に見舞われた。
アデーレは冷やかな眼差しをヒタとミアに据えている。
「どこから拾ってきたのか知らないけれど、彼の好みは貧相な小娘だったのね」
そう言った彼女は確かにミアよりも頭半分ほど背が高く、メリハリのある豊満な身体つきをしていた。
ミアは彼女の台詞に困惑する。
けなされているのは、流石にミアにも解かった。けれど、どうしてそうされるのかが解からない。
黙り込んだままのミアを、アデーレが嗤う。すると、滑らかそうに見えていた口の脇に、くっきりとしわが刻まれた。リヒトと同じくらいの年だと思っていたけれど、もう少し、上なのかもしれない。
アデーレは、笑っている。けれど、こんなにも嫌な気分になる笑顔を、ミアは今まで向けられたことがなかった。
彼女は腕の中の敷布を揺すって抱え直し、軽く首をかしげてミアを見下ろしてくる。
「彼に女の扱いを教えてあげたのは、私なのよ」
唐突に投げつけられたその台詞が、ミアには理解できなかった。微かに眉根を寄せている彼女の前で、アデーレが続ける。
「リヒト様、上手でしょう? あれ、私が教えたのよ、全部、何もかも。すごく探求心旺盛だったわ。私のことを悦ばせようとして、もう、夢中で」
アデーレは嫣然と微笑んだ。それは、腹いっぱいになった猫が舌なめずりする様を思わせるもので、その笑顔にまた半歩身を引きながら、ミアは眉間のしわを深くする。




